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学校に行くと決めた息子の決心は本物だった

 息子が登校すると決めた朝。
 
 4ヶ月程前に、うつ状態になった息子はソファからも起き上がれる状態になかった。

 その息子が学校へ行こうと頑張ろうとしていた。

 別人ではないかと思うくらいに、準備も早くスムーズに家を出ることができた。

 学校へ向かう道中の息子は、話も上の空で顔がこわばっていた。

 長い間休んでしまったのだから、無理はない。

 いつも以上に早めに家から出ることが出来たので、もう学校まで目と鼻の先。

 息子が話しだした。

「まだ少し早いんじゃない?」

 その言葉は、もう少しだけ時間をくれないか?と私に言っているように聞こえた。

 「あと5分くらいどっかで車止めて休もうか?」

 私は車を少し路駐した。

息子は少し落ち着いた様子で、学校に向かう。

 私は「はい、深呼吸。吸って~。吐いて~。」と一緒に2回深呼吸する。

 息子の気持ちが痛いほど解ったからだ。

いつも絶対やらない、息子が深呼吸する気になったことも嬉しかった。

「なんなの~?」と息子は笑った。

「リラックス、リラックス。」と私は言う。

学校の玄関先まで着いてしまった。

 何度も降りようとしたが、頭を抱え何度も躊躇しながら、やっとのことで車のドアを開ける。

「肩の力抜いて~。大丈夫!」ポンっとリュックを叩いて背中を押した。

”初めてのお遣い”を見送る母の気持ちのようだった。

高校へ行くと決めた日

昨日は息子の心臓外来の健診だった。

心臓の結果は落ち着いていた。

家に向かう道中、会話の中に高校の話が出た。
「明日学校に行く」

と息子が一言話した。

行くために条件を何個か説明する。

条件の話はこのあとの章にはなすが...

息子は納得してくれた。

「お母さん、仕事していいよ。」

と気を遣ってくれた気持ちは解っているが、私にとっては、その言葉は重く心にのしかかかる。

「お母さんはまだ、精神的に落ちついていないから、今仕事したとしても又体調崩して辞める可能性があるから無理できない。あとはあなたが、自分の力で出来ることを少しずつ増やしていって、自立できるようになるまではおかあさんは精神的に安心できない。」

と伝えた。

「そうさせたのはお母さんが、何でもやってくれるから出来なくなったんだよ!」  

息子が言う。

「あなたに今まで、出来ないことをできるようにしようと、ずっと声を掛けてきたけど聞いてくれないことが多かったよね?手伝ってあげる事が必要なことが沢山あったから、手伝ってたけど、あなたにとってはお母さんが今までして来たことが、余計なお世話だったんだよね?!」

私が話すと、息子は後部座席で涙声で涙を流しながら私に一生懸命話し出した。

「そうじゃないんだって!こういうこと言いたくて、言ってるんじゃなくてお母さんにはもう僕のことで心配しないで欲しいし、自分のことは自分でやるから...」

息子の気持ちを聞いて、そんな風に私を想ってくれてることが嬉しかった。

誤解を招くような言葉が出てきてしまうんだろうか...一生懸命伝わるように伝えたいことが、先に出て来ない悔しさもあるんだろうなとも感じた。

不登校から再出発するまで

 約4ヶ月近く発達障害(ADHD)の二次障害のうつ状態を患い、不登校だった息子を学校へ送り出した。

 息子自身で、もう一度学校へ行きたいという意思表示は3回目である。

一回目に行こうとしたのは9月の上旬。

 登校していれば、ギリギリ間に合う予定だった。

2回目も行こうとしたが、行けなかった。

 10月末の今、休んでしまった分取り戻すのは、不可能と言われており、単位が足りない状態である。

 息子の高校は、定員割れで廃校が決まった為、来年は留年できない。

同級生と一緒に卒業するのは無理なのだ。

3回目の登校の話をしたのは昨日のこと。

私は現状を説明する。

「単位が足りないから、学校に居れる可能性が低いよ。卒業まで高校に行きたいの?それとも、在学できる3月まででもいいから行きたいの?」

息子が答えた。

「後者の方」

 3月まででもいいから、学校に行きたいという願いだった。

息子には次のことを伝えた。

①学校に行っても、同級生と卒業できない可能性の方が高い。

②来年は廃校が決まったため、下の学年は入って来ないので、留年はできないこと。

③学校に行くなら、進学は難しいが、しっかり授業と最低限のルールは守ってほしい。

④体調を崩してしまったら、今の学校にはもう来れないと思って欲しい。

⑤このまま学校にいたとしても、進学できるわけではないから次のことを考える必要があること。

息子の意思は堅かった。

「卒業できなくても、来年3月まで在学できるなら同級生の仲間たちと、一緒に学校生活を送りたい」

ただそれだけだった。

今の高校を、離れなければならないときが必ず来ることを、解っていながら行くと言った息子の言葉を聞いて思った。

「次の段階に進むまでの繋ぎとして、息子が楽しんでくれるなら学校に行かせよう」

ただし、晴れ晴れした気持ちばかりではなかった。

「必ず学校から離れなければいけない時が来た時、息子は耐えられるのだろうか...」

頭によぎる。

息子を見送った日、次のことを考えるために養護学校の見学をしにいく。

「病気を治しながら学校に通えて、最後まで卒業できる学校だよ。お母さんが見学してみて、良さそうだなと思ったら次は一緒に見学しに行こう。」

 と息子には最初から説明していた。

「病気を治しがら通える学校」と話して見学するという約束もしていた。

すんなりOKしてくれた。

 話していないのは”養護学校”であるということ。

「養護」の2文字は知的や肢体不自由の学校のイメージが強い。

そういうことに関しては、鋭いので話していない。

 私が見学した養護学校は病弱養護学校になるらしい。「重症」「知的」「知的を伴わない発達障害など」が通学できる学校で、私の住んでいるところで、一番近い学校がそこだ。

 重症、知的の子もいたが息子のように発達障害などで普通学級に通っている子も居る。

 体調不良で学校に行けない時は、休んだ日の課題をやることさえすれば、学校に通学したものとみなされる。

休んでも、心配はほとんどないらしい。

 私もうつ病を患っている状態で、一年くらい仕事に就けない状況にある。

 送り迎えになってしまうのだが、送り迎えの交通費や諸経費など払える状況になく、お金の面を心配していたが心配もいらないようだ。

 普通高校に入学となると、お金の面ももちろんだが、また同じような状況(うつ病)になる可能性は高い。

 息子は普通でありたいと願う気持ちは解っている。

 ただし、今の息子はまだ自分で出来ないことが多すぎるのだ。

 1人で出かけた事もなければ、身の回りのことも声をかけてあげなければ、自分で行動することが出来ない。

 この後、久しぶりに通学した在学中の普通学校へ息子含めて、先生とこれからのことを話しあうことになる。
 


 

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