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無題

窓を開けるとぶわっと湿った生温い風が吹き込んでくる。スパイスだか油だかよくわからない匂いを纏ったそれは不快以外の何物でもない。
どんよりとしてきた空気に、ああ夜は降るなぁとぼんやり考えて煙草に火をつけた。また温い風が吹いて煙を攫って行く。

夏は嫌いだ。この暑苦しいのにやたら密度の高い往来、カンカン照りかと思えば突然叩きつける雨粒、日が落ちても熱っぽいままのアスファルト。すべてが鬱陶しくて、こんな季節早く終わってしまえよと叫び出したくなる衝動に駆られる。

特にこの街はただでさえ年中湿った空気に覆われているというのに、夏の暑さときたらたまったもんじゃない。俺が身を置くアパートにはエアコンというものがなくてちっぽけな古い扇風機だけでこの暑さを乗り越えることを強いられる。なんて不便。こんなところ二度と来るかと滞在期間の終わりに思うのに、毎年夏が来るとなぜか嫌いで仕方ないはずのこの季節に、嫌いで仕方ないこの街へ足を向けてしまう。

その理由が、この街の人間が誰も俺を相手にしないからだということに気づいたのはいつだったか。この街の人間は驚くほど他人に興味がなく、曲がりなりにも観光客という体で荷物を引きずって歩く俺を誰も気にも留めない。店員も俺から何かアクションを起こさないと何もしない。その対応でさえも極力エネルギーを使わないぶっきらぼうな話し方だったり、とにかく怠惰なのである。俺の部屋だって、俺がエアコンをつけろと文句の一つでも言いに行けば上質じゃなくとも冷風を吐き出してくれる機械ぐらいは与えてくれるのだろう。もっとも、俺もこの街の空気に毒されて怠惰の化身となってしまったので文句を言いに行くのでさえ億劫なのだが。

驚くべきことに、対応がとんでもなく雑なのにもかかわらずこんな俺のことを記憶の片隅に置いていたのか二度目に来た時には「ああ、あの兄ちゃんか」みたいな目をして狭くて暑苦しいこのアパートに住まわせてくれた。なんでまたここなんだよとぼやいたが生憎使っている言語が違うためにちゃんとした言葉として認識はされなかったらしく、だが決して愛想笑いなどはないきわめて不愛想な接客(?)をされた。それに不思議な心地よさを感じてしまうあたり、俺も大概変な奴だという自覚はある。

もうすぐ日が暮れる。夜になれば眼下の繁華街にはネオンが灯り、通りやアパートの廊下には酔っ払いの怒号が響き渡るようになるだろう。俺が布団に入ろうとしているときに限って取っ組み合いの喧嘩が始まったりして、こちらとしては迷惑極まりないのだが、他人に迷惑をかけることも厭わない奔放な生き方というものは俺には決して真似できないことなので、微かに憧れみたいなものを感じる。

ああ、明日でこの街とはお別れだ。来年こそエアコンの催促をしなくては。

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