【創作小説】果ての羨望、六畳半にて(2)「独り占め」


「なんか眠そうってか隈酷いぞ、大丈夫か」

 イマイチはっきりしない発語で講義の終わりを告げた教授の声と同時に席を立とうとしたところで、隣から肩を叩かれた。心配そうな顔をして覗き込む彼の視線に相手が誰か把握し損ねたのと同時に何の用事かこれから自分は食堂に行くんだと、同時に様々な思考が頭を這いずり回った挙句どれも曖昧に消えて行って、ひとまずこちらを覗き込んでいる金髪が友人である雨森あまもりだということはなんとか把握しつつしばらく反応できずにいると、いよいよ不安げな顔でもう一度大丈夫かと聞かれる。

「ああ……うん?大丈夫。昨日徹夜しただけだから」

 無理矢理口角を上げ、およそわざとらしいであろうふうに目を細めてみせると雨森は安心したように笑顔を見せる。

「試験勉強とか?」
「完全に趣味だよ。オールで映画見てた」
「なんだよ心配させやがって……体調悪いのかと思ったぞ」

 最近寒暖差激しいし体調崩す奴多いんだよと眉を顰めて言う彼にお前は細かいところに気づくよなと褒めてやれば、雨森は照れたように肩をすくめる。

 昨日は結局、外が明らむまで映画を見た。二限から講義があるのを忘れていたわけではなかったが、正直なところやる気はなかった。出席していればほぼ確実に単位は出るし、教授は講義中、一度たりともこちらを見ようとしないようなやつだ。舟を漕いでいたって突っ伏していたって、なんの影響もない。

 あとは昼休憩を挟んで三限の授業を受ければ今日の予定はおしまいだ。次は真面目に聞かねば単位が危ういが、食堂か図書館で十五分程度仮眠を取ることができれば問題はないだろう。その後はバイトも用事もないわけで、帰ったらすぐにでも寝ることができるのだ。睡眠時間は後日補填ができると聞いたことがある。一日程度ならなんの支障もなく健康的に過ごせるようになると、曖昧な知識で己に言い訳をしていた。

 昨日共に徹夜をした夜船はといえば朝からてきぱきと昨晩の片付けに出掛ける準備をしたかと思えば再び俺の頭に手刀を喰らわせてから追い出し、続いて部屋を出て大学についてからは別行動だった。とはいえ受けている講義は大部分が必修なので同じ講義室には居ることになる。講義室の前の方に目を向ければ、彼は一番前の席で真面目に広げたノートを片付けようとしたのだろう、鞄の口を開けたところで同期の女子に話しかけられていた。

 あちこちうねってまとめようがない少し長めの髪にアーティストの影響を多大に受けた髭、いつでも酷い隈とラフな服装という風貌のくせに顔立ちは整っていて高身長なので、いつもあの調子でちょっかいをかけられている。おまけに話しかければ落ち着いた声で一言ずつ手渡すようにのんびり返される。つまりは一定の層の琴線に触れてそれなりにモテるということなのだが、本人は浮ついた話に興味がないのか、雑にあしらってはその後で果敢に挑戦した女のしょげた顔を見るのが常だった。

 いい加減何度も無碍にされて飽きないのかという疑問も湧く。何を期待して彼女らが夜船をターゲットに据えているのかはあらかた予想がつくが、実際はムカつくと手刀を喰らわせてくるやつだぞと横槍を入れてやりたかった。

「昼食いに行かない?」

 ぼうっとそちらを見ていると唐突に雨森がそう言って、どうせ食堂行くだろと付け足される。夜船はまだ捕まっている。今回はなかなか逃がしてくれないようだ。俺は断る理由もなかったので大人しく着いていくことにした。

   *

 昼時の食堂はいつも通り混んでいて、およそ日々通学している人数と食堂の収容人数が全く以って釣り合っていないせいではあるのだろうが、設置された場所からするともうこれ以上広げる余地はなく、大人しく席の確保に勤しむしかない。

 一見して満席の食堂を二人でふらふらと彷徨っていると不意に雨森が駆け出して、壁際で手を振ってきた。丁度隅にある二人掛けの席が空いたのを確保したらしい。盆を下げに向かう二人組の後姿を見送りながら、俺はよくもまあそんなに素早い判断ができるなと感心した。

「ここで良かったのか」
「なんだよ、嫌いな席だった?頑張って取ったんだけど」

 首をかしげる雨森に、お前が良いなら文句ないよと言いつつ手に持っていた教科書を机に置いた。盗られれば痛手ではあるがそこまで治安の悪い大学でもない。少なくとも今まではこの手法で痛い目を見たことはないから、それを目印として置き、券売機の前の列に加わりに行った。

 相変わらず雨森はよく食べるらしく、いつも通り大盛りにした日替わりの丼ものが緩慢な動きのわりにテンポよく減っていく。俺もまた変わらず日替わりのワンコイン定食で、苦学生向けの安く食べられてとりあえず栄養は取れるといった様のそれらを味わうこともなく口に入れた。

 雨森は器用に食べながら他愛のない話をして、俺が相槌を挟むと楽しそうに笑う。実家住みの彼は姉二人と妹一人が居るらしい。提供される話は大方姉妹についてが多く、女王様気質の姉たちに天然の妹のエピソードは尽きることがない。結論としてはそこなのだが、毎度違う話を持ってくるのでなんだかんだ言って兄弟仲は良好だということは伺い知れた。仲良さげな写真も見せてくるものだから、口ほど嫌がっては居ないのだろう。

「ところでお前、彼女は?」
「なにいきなり。居ないよ」
「この間居るって言ってなかったっけ」

 俺が問うと雨森は苦い顔をする。質問を間違えたかと思いすぐに話題を変えようとしたが、彼はすぐ軽い口調で

「こないだ別れた」

 と眉尻を下げながら言った。

「悪い、知らなかった」
「別にいいよ、俺悪くないもん。浮気されたんだから」
「より悪くないか。それ傷心のやつだろ」
「相手が百悪かったらふっきれるタイプよ、俺」

 あんな男癖悪い奴だったって気づかなかった俺の見る目は残念だけどねと、にこやかに笑う。

「新しい彼女とかは?」
「いやあ?全然。まあ今度合コン行くからそん時にね。……というか珍しいじゃん、お前からそんな話してくるの」

 俺は彼から目を逸らす。確かに普段は積極的に恋愛に関する話をしようとは思わない。相手から振られてなんとなく聞くくらいで、自分には縁もなければ興味もない。聞かれればご縁があればと当たり障りのないことを言うが、恋人のご機嫌取りは大変だと実の兄を見て学んだせいで今のところ縁も何もなかった。

「なんとなく気になっただけだよ、この間は彼女の話ばっかしてたから」
「たしかにねえ。まあ酒飲みながら慰めてもらうタイプの話じゃん、これ。存分にやってもらったからそういうことで、終わり」

 あと一コマあるんだから気分落とすのも嫌だろと空の丼を前に手を合わせながら言った。

「良い感じの人とか、告られたとか、ないのか」
「お、気になる?でも残念ながらないよ」
「気がありそうな人も?」
「さあ、そこまでは分かんないけど。なにかしらアクションしてくる人は居ないなあ」

 気づいていないらしい、となんとなく気が付いた。

 少なくとも心当たりはないのか、彼はを気に留めるそぶりもなければ女に関することに特段おかしい反応もしない。なら慣れているのかと思ったが、それにしては態度が普通過ぎる。少なくとも、先日同じように食事をしたときには、そいつは居なかったはずだ。

 雨森と壁の隙間、およそ人が座れる幅はないだろうところに女が居る。座っているにしては腰の位置がおかしいし、立っているにしても座席が邪魔になる。僅かな好奇心から足元がどうなっているのか気になったものの、テーブルは壁にしっかりと添えられた状態だから確認するには下を覗き込まなければならない。そこまでして見るものでもないだろうと下手に行動するのはやめた。

 女は白いワンピースに長く艶やかな黒髪で、切れ長の目を機嫌よく細め、薄い唇はゆるく弧を描いている。一見すれば誰もが納得するであろうほどの美人だが、その表情をしばらく横目に入れているとなんとも言えない不気味さがある。人間味がない、と言ったらいいだろうか。張り付けたように微動だにしない表情は、彼女が生きた人間ではないことをひしひしと伝えていた。

 それが雨森を見ている。底の知れない穴のような目で、じっと見降ろしていた。

 俺には、ましてや周囲には目もくれず、ひたすらに彼を見ていた。なにをするわけでもない。教室で話しかけられたときから――もしくはそれ以前から隣に居たのだろうか。ぴったりと彼の隣に張り付いて、彼より高い視線で、愛おしそうに彼を見ていた。

 彼の姉妹でないことは明らかだった。何度見せられたか知らない彼女らには似ても似つかない容姿であるし、彼女――すでに別れているので元彼女になるか――とも全く異なるジャンルの外見だ。なら新しい彼女かと思ったが、隣に居るのに一向に紹介する気配もない。前の彼女のときは付き合ってすぐに紹介されたから、あの状況でなにも言わないのは違和感があった。

 ならば、また幽霊か――

 昨夜見た足だけの幽霊とは違って、立っているぶんには他の人間と相違ないように見えたものだから、多少の戸惑いがある。だが今の状況からして、とても生きている人間とは思えない。

 どこで連れてきたんだと気になりこそすれ、彼が気づいていないなら突っ込んで聞くべきではないだろうと判断した。隣に居るだけ、しかも本人には見えていないなら、得体の知れない彼女幽霊が諦めるのを待つしかない。そもそも聞いたところで何が解決するわけでもない。俺は拝み屋やら霊能者でもないから、ただの野次馬根性でしかなかった。

「日当、なんかお前今日変だぞ」

 しばらく壁際を見つめて考え込んでいた俺に、雨森は先ほどと同じような不安そうな顔でずいと身を乗り出して覗き込んでくる。俺は慌てて、

「いや、眠いだけだから。図書館でも行ってちょっと休むよ」

 とだけ返す。身を引いた彼は僅かに眉を顰めたままだったが、俺が笑って見せると納得したようだった。そんなに単純だからろくでなしに引っかかるんだと言ってやりたかったが、わざわざ険悪な雰囲気にするものでもない。水とともに飲みこんで、俺は席を立つ。

 雨森も立ち上がり、後を追ってくる。やはり女は彼の隣について、静かについてくる。何故講義室から移動したときは気づかなかったのだろう。滑るようにして移動するそれに、足があるのかを確認するのは憚られた。

「そんじゃあ後でね」

 食堂前で別れる彼に軽く手をあげて早々にその場を後にする。振り返りざま、ふと女がこちらを見ていることに気づいた。一瞬だけ見えた表情は明らかに笑っていない。真っ黒な目を見開き、口を真一文字に結んで俺を睨みつけていた。

 俺は振り返らないように真っ直ぐ図書館への道を進んだ。この際雨森にどう思われようが仕方ない。彼に執着はしていないのだと、女に知らしめる必要があると思った。

 角を曲がったところで、見覚えのある後姿が目に入る。

「夜船」

 縋るように声をかければ、体ごと思い切り振り返った彼は不思議そうな顔をした。

「どうした、そんな顔して」

 今の自分がどんな表情なのか、はっきりとは分からないが多分情けないものにはなっているだろう。

「俺さあ、やっぱ心霊系のちゃんと怖いやつって苦手なんだよ」
「うん……?まあそうだね、B級はつまんなそうだけど有名どころだとちゃんとビビってトイレ行けなくなるもんな」
「あー、いや、まあ、そう。そうなんだけどさ」

 足だけならいけたんだよと言えば何かしら察したのか、ああ、とだけ呟いて背中を叩かれた。

「え、なんか居る?」
「素っ頓狂な声出すな。今のは慰めるやつだ……なんも見えないよ」
 溜息と共に哀れんだように見られ、俺は耳が熱くなるのを感じた。
「図書館行くんだろ、寝に」
「分かってんじゃん」
「いつもそうだろお前。仕方ないからついてってやるよ」

 どうせ行き先は同じだったくせに押しつけがましく言う彼に舌打ちをしても、返ってくるのは乾いた笑い声だけだった。並んで歩きだし、ようやく落ち着きを取り戻したような気がする。そんな俺を知ってか知らずか、夜船は特に何か聞いてくるでもなく、手に持った文庫本に目を落としていた。

「あれだな、皆に良くしてるヤツって生死問わず好かれるんだな」

 そう呟けば夜船はちらりとこちらを見て、

「構ってくれるなら誰でも良いんだろ。確率が高そうなやつを選んでるんじゃないの」

 とにべもないことを言った。

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