【創作小説】朽ちなむ

前作「よにふる」の続きです



 酔って道端に落ちている人は良く見るが、死んでいるのを見るのは初めてだった。

 死人は葬儀で見たことがある。あれは体裁を整えられていたのだなと、改めて実感した。驚いたように見開かれた両の目は白濁して、何かが見える状態ではないのに、こちらを見ているような気がした。焼き魚だとこんな感じだなとにべもないことを考える。棺の中で目を閉じられるのは、これを見せないためもあるのだろう。

 夜を紛らわすネオンの張り巡らされたビルの谷間に落下したそれは、微動だにせずこちらを見ていた。繁華街を歩く人の群れの中で。誰に足蹴にされることもなく。

 おかしいな、と思った。これだけ人でごった返した場所で落ちたのだ、誰かに当たってもおかしくはない。奇跡的に避けたとして、悲鳴をあげることなく、ましてやこちらを見もしないというのはあり得るか。スマホを向ける人も見えない。誰も彼も、避けようとするでもなく歩いている。異常な事態だと理解した。都会の人は冷たいね、などと言われることもあった。だがこれは、度を越しているとかいう話ではないと思う。

 改めて死体を見る。医学生でもなし、そもそもが文系の専攻なので詳しいことは分からないが、これは死んでいるに違いない。これだけの血と、中身を出して生きていたら奇跡だ。現代医学でも救いようのない損壊があることは、友人の葬儀に出たときに嫌というほど知らされた。救急車を呼んでやるべきなのだろうか、この得体の知れない手遅れな存在に。

 死体から逃げない雑踏は、俺を迷惑そうに避けていく。道のど真ん中であるから仕方がないが、この死体が科学的に証明しうるものでないことの証明にはなった。周囲に倣うなら、俺も無視をしても良いんだろうか。人混みに紛れて歩き去ればどうにかなるものなら、是非ともそうしたい。だが――

 。それが懸念点だった。

 俺に見えていて、他に見えていないなら、俺になにかしらの関連があるとみるのが妥当だろう。とは言っても、何か心当たりがあるわけでもない。考えても無駄なことだろうけれども、現段階で目の前にあるものが、逃げることを阻んでいる。俺の頭がおかしくなったのなら、まだ検討の余地がある。だがそれは、おいそれと受け入れられることではない。先ほどまでは、なんの変哲もない日常を送っていた――と俺が認識しているだけかも知れないが――はずだった。

 何か、あるとするなら――。夏の夜、父の実家の裏にある山で、叔父が死体を埋めていたのを思い出した。他に見た死体。あとはそれしかない。マネキンと見紛うような、血の通わない白い四肢。ブルーシートから覗いたそれを、目の前の死体に重ねた。

 あれに関連するのなら、あまりのショックから出る幻覚の類か。それを確かめるために、恐る恐る死体を蹴った。スニーカーを隔てて伝わる、柔らかい感触。くぐらせた腕の重み。やけにリアリティのある感覚だった。これが実際の死体なら、俺は傍から見ても精神の異常を疑われるのだろう。だが、周囲が気にする様子もなかった。顔もわからない人が、代わる代わる通り過ぎていくだけ。叔父も、死体を足蹴にしていたなと――

 これもまた、幻覚でないかと言えば判断のつかないものだけれど……。幻覚でないのなら、やはり本物か。わけがわからなくなって、俺は、逃げることを選んだ。周りが気づかないのであれば、気づかないふりをしているのなら、逃げたとして同じことだろう。再びなにか接点が生まれるとするなら、その時はその時だ。そう無理矢理納得させて、俺は帰路を急いだ。

 一人暮らしのアパートでベッドに潜り込んでからも、あの死体の目が脳裏にこびりついて離れなかった。知らない顔から、強烈に浴びせられる濁った視線。点が三つあれば顔と認識する頭では、両目がこちらを向いていれば、見られていると知覚する――だけなら良いのだが。

 良くはない。だがそちらの方がマシだ。そもそも死体を見るのが不愉快この上ない。しかも確認のためとは言え、死体を足蹴にしたのだ。見られていたら……。ひとり逡巡しても意味もなし、ただぐるぐると嫌なものが全身を巡るだけで、眠ろうにも、冴えた頭は無駄な働きを見せた。

 なにか行動しなければ収まらないのは分かっている。だがどうするべきなのか、見当もつかなかった。道理に沿ったやり方をされるなら、しかるべきところに通報なり相談なりすればそれなりの体裁をもって収まる目途が立つ。だがあれはどうだ。不気味なほどに無関心な雑踏の中に横たわる、見るに堪えない状態の人間――のようなもの。見てくれは俺の知るところの人間だと思ったけれども、他を併せて総合的に判断すれば、、ということになるのだろうか。

 そこまで考えて、どう足掻いてもこの状態では解決できるものではないのだろうなと思い知る。あれが幻覚でも、実際の死体でも、どちらに転んでも俺にとって愉快な状況ではない。

 見なかったことにする――そうすれば、逃れられるだろうか。ならそうしよう。そうするしかない。あの場から逃げて、今なにもないのなら、一先ずは逃げられたと取るべきだと、そう思いたかった。

 そうしているうちに、いつの間にか俺は、泥沼のような眠りに落ちていた。

   *

 昼過ぎの講義しかない日は、遅くまで寝ていても問題がないので好きだった。だが、今日は憂鬱しか生まれない。昨日の死体が、起き抜けから思考を支配していた。妙に早く目が覚めてしまい、またしても何も手につかないわりに焦燥感に苛まれる時間が続く。早めに行って確認するのも、恐ろしい気がしてならなかった。後回しにしても結果は変わらないけれども、できるだけ逃げていたかった。遠くから聞こえるサイレンの音に、鳥肌が立つ。それから俺は通学時間になるまで、悶々とするしかない時間が過ぎるのをひたすらに待つことになった。

 結論を言えば、死体は消えていなかった。警官の姿もない。それどころか、今度は臭いまで漂ってくる。その鬱陶しいのを避けて、俺は大学までの道を急いだ。俺と同じ方向へ行く人々は、それを気に留めることはない。やはり、見えないものなのだろう。

 安堵した。そういうものだと分かってしまえば、あとはどうでもよくなった。

 無視しても良いものならそうするに尽きる。なにか危害を与えてくるのなら、そのときには考えよう。いまのところは、そうするのが良い。死体は動かない。俺の頭がおかしくなった可能性は拭えないが、俺が死人要配慮者を放置したのでないのなら、たまたま見えてしまっただけの存在で、俺にそれが見えていることを、他の人間が知る由もないのなら。それをなかったことにして、に生きて行けば良い。昨夜から一転、やけに晴れ晴れとした気分になった。焦らせるのも大概にしろと、唾を吐きかけてやりたくもなった。下品なのでやらないが。

 心霊的なものが苦手ではある。暗い場所や、廃屋だとか、いかにも幽霊が出ますというようなところへは、何を積まれたって行きたくなかった。だが、薄暗い雰囲気のものがダメなだけで、暗闇から白い顔を覗かせるだとか、髪の長い女が静かに傍に立っているだとかならまだしも、B級映画よりも酷い、スプラッタ寄りの様を見せられても困惑するだけだった。

 それからは、存在しない気に留める必要のない死体を横目で見て通学する日々が続いた。人間の成れの果てはこうなのかと、いつか見た地獄絵を思い出す。あの世があったとして、生きているうちに認識できるのはここまでだ。どう想像しようが、体が朽ちることしか結末を知らない。いつの間にかそれが消えうせたとき、そんなもんかという虚しさがあった。

   *

 二回目にそれを見たとき、いよいよそれが、俺に何らかの因果のある現象であるということを理解する。辺りに響く音に、驚きはした。だからと言って、なにかが変わるわけでもない。アパートの付近でも、大学の構内でもないのがありがたい。それだけだった。命の危機を感じるほどの大雨の方が、まだ案ずるに値する。

 とはいえ、異臭を放ち、生々しい中身をこれ見よがしに晒す死体が常に見える場所にあるのは不快だ。ほかに懸念する点といえば、道のど真ん中に落ちるので、よほど足を上げない限り突っかかるということか。何もないところでコケるなと、友人に笑われるのが嫌だった。

 ただ――これが、いつまで続くのだろうとは思った。肝心な場面でこれが落ちてくるのなら、それこそ迷惑以外のなにものでもない。見えたとして目の端に入れる程度だけれども、見えないに越したことはない。だが確認するすべはない。母はもとより、父に相談するのも――

 そこでふと、叔父が頭をよぎる。これが血縁によるものなら。怪談など楽しむような質ではないが、降ってくる見えない死体などという説明しがたい現象が起きてしまった以上、それくらいの突拍子もない怪現象でも信じるに値するかも知れない。叔父が埋めていたのが、降ってきた死体だったのなら。口止め料をたかだか数百円のアイスで済ませたのも道理が通るのではないかと、ろくでもない記憶が繋がった気がした。バレる心配が端からないのなら、最低限で良い。

 埋めるという手段を取った叔父が、一度東京に出たのにも関わらず、とは違い実家に居座り続けるのも納得がいく。山に埋めるしか知らないから、手元に降ったものを、その場で片づけるしか方法が分からなかったから。それに固執して、逃げられなくなっているのだったら。

 あの場で怯えた俺が馬鹿らしくなった。怯えていたのは、叔父の方だ。

 雑な対価アイスで買収しようとした叔父は、俺に死体が見えているのに気付いたのだろう。隠そうとしたのは死体ではなく、己の恐怖心か。身内に犯罪者が紛れていた訳ではなかったことに胸をなでおろした。

 案外弱いところがあるんだなと、夜闇のような叔父の目を思い出す。自ら逃げ道を塞いで地獄へ貶めるようなものだなと憐れんだ。俺はそれで、妙に納得した気になって、笑いが込み上げてくるのを抑えきれず、軽い足取りで死体を通り過ぎた。

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