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【短編ホラー】平年比+※※℃

涼しげ怪異。


 振りほどこうにもいつまでも触れてくるような熱気が全身にまとわりつく。逃げる余地のない汗が重力に負けて、項を、背中を伝う。用事があったとはいえ、丁度脳天を焼かれるような時間に外に出るものではなかったと心底後悔した。そもそも急ぎの用事ではない。それなら雨でもなんでも、少なくとも今日のように日差しの強くない日にすれば良かったと己の無計画さにうんざりする。

 これ以上ブロック塀の続く道であまりにも人間に適さない温度に曝されるのは危険だと判断して、道から逸れ自分の住むアパートよりも近い叔父の部屋の呼び鈴を鳴らした。少しの間を置いて開けられた扉の隙間から冷気がするりと這い出てくる。
 顔を覗かせた叔父は相変わらず色のない白い肌で、何の用だと感情のない声で言いながら向けられた瞳は夜の海のようだ。暑いから逃げて来ましたと素直に言えば、邪魔だが仕方ないと言わんばかりに眉を下げてから背を向けられた。

 照明のついていない薄暗い単身者用の部屋には思わず身震いするほどの冷気が充満していた。ぎりぎり人が通れる程度の隙間をもって積まれた本に躓かないように廊下を進めば、さらに高く積まれた本で最低限の生活スペースを除き埋め尽くされた居間に至る。その隣の和室へ続く襖はぴっちりと占められているが、そこにも布団を敷くスペースを避けて――と言っても布団を多少壁に押し付けるようにはなるのだが――本が押し込められているのを知っていた。

「本増えました?」
「最近は家まで送ってくれるから便利だ」

 回答として妥当なのか議論の余地があるものが返ってくるが、この炎天下を外に出なくとも本が手に入るということを言っているのだと思う。なら本が増えていないはずはないから、以前より部屋が狭く感じるのは俺の背が数センチ伸びたからだとか目の錯覚などではないのだろう。

 俺が荷物をどこに置こうか迷っている間に古びたアパートに似つかわしくない、妙に座り心地の良いソファに収まった叔父は読みかけだったのだろう本を開き、俺では到底理解が追いつかない速度でページを捲っていた。こちらを構う気は全く以ってないらしい。突然押しかけたのだから茶の一杯でも出せと言うのは傲慢だろうが、自分で支度をするなら水をねだるくらいは許されてもいいだろう。

「叔父さん、水貰います」

 言いながら水切りかごに入っていたグラスを手に取れば、うめき声に似た肯定と取れそうな返事が返ってくる。

 ここに来たのはいつぶりだろうか。寄り付かないわけではないが、月に一度来るような仲でもない。叔父と会うのはもっぱら父の実家で、年末年始の定例か法事で顔を合わせても、これと言って特別な会話をした記憶がなかった。叔父があまり喋る方ではないというのはある。親族が集まると、部屋の隅で食事に殆ど手を出さず酒を飲んでいることが多い。だからこちらからも積極的に関わろうという気はなく、血縁で父の弟で重度の本の虫という以外、何をして食い扶持を確保しているのかも、何も知らなかった。

 それでも大学生になって地元を出るとなったとき、心配した両親が提案した住居は叔父のアパートから近い場所だった。なにかあったら頼りなさいと道を教えられ、同意したのかどうかわからない叔父の感情の読めない顔を眺めながら挨拶した以降、まれに両親のいいつけで――明言はしなかったが叔父の生存確認は含まれているだろう――ときおり邪魔することがある。

 いつも何をするわけでもない。会話もほとんどない。ただ本に占領された部屋で、飽きるまで時間をつぶすだけだ。たまに本を借りることもある。返すのは飽きたときでいいからという叔父の言葉を額面通り受け取って、数か月前に借りた本がまだ部屋の座卓に放り出されたままなことを思い出した。

 真夏に来たのは初めてだな――と水を煽って視線だけで部屋を見回したとき、叔父がこちらを見ていることに気づいた。

「これ使っちゃダメなやつでしたか」
「いや……別に潔癖症とかじゃないから。どれ使ってもいい」
「じゃあ他になんかありましたか」

 叔父は一瞬考えるようなそぶりを見せた後、

「冷凍庫にアイス入ってる」

 と俺の横を指さした。叔父がものを食べるのかとよくよく考えなくとも疑問に思う必要のないことが浮かぶ。ろくに食事をしているところを見たことがないが、改めてキッチンを見れば使いかけの調味料にそこそこ使われているらしい調理器具なんかはあるから、一応自炊はしているのだろう。

「叔父さんアイスとか食べるんですか。甘いもの好きなんですか。ちゃんと食事してるんですか」
「質問が多い。夏だと食欲なくなるから……何も食べないよりはマシだろ」

 昔から兄さんがうるさかったからと、豪胆な父でも食の細さを心配する程度には食べなかったのだろう過去を覗かせて、叔父は再びページを捲り始める。貰って良いんですかと聞けばまた、ん、と音を発するだけの短い返事があって、俺は冷凍庫の扉を開けた。

 霜で覆われた庫内。分厚いそれが、業者の主張するものよりもはるかに容量を狭めている。その中に、カップやら袋に入ったアイスがいくつか入っていた。――それに並んで、人の目がこちらを覗いている。

 思わず後ずさりして、背後にあったソファに腰を打ち付けた。無遠慮に叔父の肩を掴むと、痛いと弱い悲鳴をあげてから、氷のように冷たい手で腕を掴まれ外される。

「お前、ホラーとか苦手だったか」
「そういう問題じゃないでしょう。というかなに入ってるか知ってるんですか、あれなんですか。叔父さんなんかやったわけじゃないですよね、なんですあれ」
「落ち着け。俺はなにもやってない……たまに入ってるんだよ」

 よく見ろと言われたので、叔父の肩に手を添え道連れを確保しつつ恐る恐る冷凍庫を振り返る。開け放たれたままのそこに、アイスの隙間から人間の顔の、上半分が覗いている。丁度膝立ちになったのをゲームのバグよろしく冷蔵庫にめり込ませたような状態だ。その顔はぎょろぎょろと濁った眼を動かし、俺の方を見つめるでもなく視線を彷徨わせている。

「死体ではないだろ」

 警察のお世話にはならないよと、ため息交じりにどうにもズレた反応をする。

「どっちでも嫌なんですけど」
「現にあるんだから仕方ないだろ。だったら身内に犯罪者がいるより幽霊の方がよっぽど良いだろうに」

 当たり前のことを聞くなというふうに眉を顰めながら叔父が睨んでくる。たしかに実際、心象の悪いのは前者だろう。社会的な損得及び見栄に評価を考えればその通りだ。しかし、実際この状況に置かれてみれば、得体の知れない怪異が手近に存在するのは生きた心地がしない。いまのところなにをするでもないが、正体がわからない以上何をされてもおかしくない状況なのだ。

「……大丈夫なんですか」
「なにが」
「幽霊しかないでしょう。アイス取れません。怖いです」
「体格良いくせに肝は小さいんだな」
「そんな手の冷たい人は心があったかいみたいなこと言われたって怖いもんは怖いです」

 徐に立ち上がった叔父に腕が支えをなくし、体勢を崩してソファに寄りかかる。回り込んだ叔父は何が好きなんだと問い、イチゴが良いですと言えば幽霊の居る庫内に躊躇いもなく手を突っ込んでアイスを取り出した。

 差し出されたそれを受け取りこそすれ、得体の知れない怪異気味の悪い顔と並んでいたのを考慮すると、とてもじゃないが食欲が湧かない。手が冷えていくのを感じながら黙って呆然と立っていれば、叔父が冷凍庫の扉を閉める音がした。

「締めときゃ見えない。良いだろ、それで」

 片手に棒アイスを持ってソファに戻った叔父は、器用にもう一方の手で文庫本のページを捲る。俺はどうにも落ち着かなくて、叔父の足元に積まれた本の隙間に腰を下ろした。

「いつも出るんですか、あれ」

 叔父に無視されても傷つかない程度の声量で言えば、叔父は足を組み替えながら

「夏場だけだ。暑いから、外」

涼みに来てるんだよとなんでもないように言う。

 毎年のように記録を更新していく外気温では、蝉も鳴かなければ人間は生きていても死んでいても活動できないらしい。それが叔父の推測なのかなにかしらの確証があっての発言なのかは見当もつかないが、ひとまずはそれで納得することにした。

「毎年出るんですか」
「うん……多分?あんまり覚えてない。今日みたいに暑い日は居たと思う」
「夏だけですか」
「そうだね、他は冷凍庫に入るほど暑くないからな」

 稼ぎ時のくせにサボってて良いのかねと何に対する心配なのかわからないようなことを呟く。

「叔父さん」
「なに、もう一個くらいなら食べても良いけど」
「……違います。俺一人暮らしなんですけど」
「知ってる。それがなんだ」
「部屋に出たら困ります。居ませんよね」

 頭上から深い溜息が降ってくる。

「知るか、帰って確かめれば良いだろ」
「嫌です」
「じゃあ冷蔵庫開けるな」
「それは無理があります」

 わがまま言うなと足で軽く蹴られ、俺は渋々アイスの蓋を開けた。体温で縁から溶けて、蓋についた液状のそれが垂れるのを指で受け止める。

「まあ、出たらこっち来ても良いよ」

 囁くように言われたそれに、俺は身をねじって叔父を見上げた。両親兄夫婦から俺の世話を押し付けられたときと同様に、なんの感情もない顔で見降ろしている。

「良いんですか」
「寝る場所無いけどな」

 ついでに布団もないよとソファの背に体を預けながら言って目を細める。

 こっちにも出るからあんま変わんないなと続ける叔父に一人よりはマシですと縋れば、朝には追い出すからなと突き放された。それから僅かに八重歯を覗かせながら口角を上げて、早く食べないと溶けて残念なことになるぞと小突かれる。

 俺は既にカップの外側からも触れて分かるほど溶けたピンク色の液体を掬う。こことは違って足元の方にある自室の冷凍庫では、一体何がどう出ることになるんだろうかと、とりあえず目があるのは嫌だなと考えて、効きすぎた冷房で冷えた体に鳥肌が立った。

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