それぞれの人生をそれぞれが生きるということ――人生の絶対的個別性
何回も何回も書いていることなのだけれど、何回書いても、なかなか理解されないだろうから、もう一度書いてみようと思う。何回書いても理解されないようなことを、それでも書くというのはいったいどういう心持ちなのか。書いている当人もよく分からない。こういうものを業というのかもしれない。
で、何を書きたいのかと言うと、生きるということ、このことである。生きる、生きている。この世の中に存在する全ての人は必ず生きているわけである。死んでいる人は存在していない。生きている人は、生きているという点でみな共通しているけれど、共通点はその一点だけであって、生きている人は、みなそれぞれの人生を生きているという、このことを分かっている人はかなり少ない。いや、ほとんどいないのではなかろうか。
そんなことない、分かってますよ、誰もその人に代わってその人の人生を生きることはできない、自分の人生は自分が生きるしかない、そんなことは言われなくても分かっています……と言うのは簡単である。しかし、その本当の意味はどういうことか、これを肌感覚で分かっている人は、ほとんどいないだろう。それぞれの人生をそれぞれに生きているということは、他人の人生に対して何か言うこともできなければ、自分の人生に対して口出しされることもできないし、自分と他人の人生を比較することもできない、というそういうことである。
さて、数日前に若くして亡くなった女優がいる。どうやら、自殺ということらしい。熱烈なファンや、それなりのファン、ファンでも何でもない人が、それぞれに、色々なことを言っているが、人生がそれぞれの人のものだということを認めるということは、その女優の死について、何も言うことはできないということである。彼女の死を、悲しむことも、さげすむことも、残念がることも、そこから何かしらの問題提起を得ることも、それらのことが何もできないということである。いや、できてもいいのだけれど、悲しむなりなんなりしたことを、あなたの人生に適用することはできない。あなたは、彼女ではない。なので、あなたが悲しんだことを彼女は悲しんでいないかもしれない。いや、そういう言い方は正しくない。あなたが悲しんだことを彼女は知らないし、彼女がどう思っていたかはあなたには分からない、と言った方がいい。誰も彼女の身になることはできない。
わたしは、自殺したとしても彼女も彼女なりに幸せだったのだ、などということを言っているわけではない。彼女が幸せだったか、不幸だったかなどということは、彼女ならぬ身には分からないと言っているのである。この「分からない」ということが分かる人は、本当に少ないのではないか。分からないということがどういうことか分かる、すなわち、これも再三繰り返してきた、「無知の知」である。
分かる、と誤解している人々が、彼女の死に対して、あれこれと言っているわけだけれど、死んでしまった彼女は、それに対して応えることもない。彼女は、こちら側とは縁を切ったのである。彼女の死に対してあれこれと言う人は、すでにあちらへと旅立った彼女を、なんとかこちら側に留めたいという気持ちがあるのかもしれない。気持ちは分からないでもないが、それは絶対に無理なのである。死者は何も語らない。そうして、実は、生きている人間さえ同じことなのである。
「自分の」人生、「他人の」人生という言い方が、間違いのもとなのだ。人生は、常に自分の人生しか無い。一つしか無く、類例は無い。自分は他人にはなれないということ、他人は自分の代わりにはなってくれないということ、このことを、しっかりと見つめてみよう。分かった気になっていた人生が、途端に分からないものとして立ち現れてくるだろう。それを見つめ考えることが生きるということである。
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