少女とクマとの哲学的対話「大人なら自分の頭で考えよ」
〈登場人物〉
アイチ……高校2年生の女の子。
クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。
クマ「何読んでるの?」
アイチ「現代文の先生から借りた本だよ」
クマ「ふーん……『見てる、知ってる、考えてる(サンマーク出版)』か……ああ、10歳の子が書いたとかって、前に騒がれていた本だね」
アイチ「先生がこれほど素晴らしい本は初めて読んだって、やけに感動してたのよ。で、貸してくれたわけ」
クマ「読んでみてどうだった?」
アイチ「うん、色々と面白いことが書いてあったよ。たとえば、
『無いを体験すると、
普通だと思っていたことが
ありがたくなる。
ご飯が食べれない
ご飯を作ってくれないを体験すると、
ご飯を食べれる
ご飯を作ってくれるがありがたくなる』
こんなのとか、ね?」
クマ「…………」
アイチ「どうしたの、クマ?」
クマ「いや、参ったな……ちょっとその本読ませてもらえるかな…………ああ、なるほど……いやいや……」
アイチ「どうかした?」
クマ「『10歳の子どもにしか書けない言葉。』か……いや、この著者の男の子については、小学校に通わないで自分で勉強して、この本を出すのにも自分で編集者に連絡を取ったってことで、その決断力とか行動力は、賞賛に値するよ、それでもね、だからといって、ここに書かれているようなことを大人が有り難がって読まなきゃいけないってことにはならないだろう」
アイチ「わたしは結構面白かったけどなあ。さっきの言葉でもさ、『無いを体験する』っていうのに引っかかってね、無を体験するってどういうことなんだろうって、考えてたから」
クマ「……それは、アイチの誤読だよ」
アイチ「そうなの?」
クマ「そうだよ。そんな、存在と無の関係なんていう話はしてないさ」
アイチ「まあ、わたしの場合はそうかもしれないとしても……大人が読んで感心したっていいんじゃない? 別に、10歳の子の方が、大人よりも考える力が劣っているわけじゃないでしょ?」
クマ「確かにそれはその通りだ。というよりも、もしも話が存在と無、生と死なんていう哲学的問題なら、むしろ子どもの方が大人よりも考える力は大きいかもしれない。でもね、この本に書かれているのは、そういう哲学的な問題じゃないんだ。たとえば、別の箇所に、こうあるね。
『生きる意味について考えていた。
僕は今まで先の事を考えていた。
苦しかった。
ママに助けを求めていた。
今気付いた。
先の事を考えるより、
今だ。
今を楽しむ。
分かるはずのない先の事を考えるんじゃなく、
今だ。
今を楽しむ。
今を生きる。』
こういうのは、処世訓や人生論と言うんであって、哲学とは言わない。どうして『生きる意味について考えてい』て、『今を楽しむ』なんていう結論に到達するんだよ。生きる意味について答えが出たあとじゃなければ、生きることを楽しむなんてことになるわけないじゃないか。そもそも、『先のことを考えるより、今だ。』っていうところから、既に考えることを手放しているわけだからね」
アイチ「うーん……まあ、でも、10歳の子が思うことだから」
クマ「もしもそういうことだったら、まだ話はマシだよ」
アイチ「どういうこと?」
クマ「10歳の子にしてはなかなかよく物を思っているなっていうような感心の仕方ならまだいいってこと。そうじゃなくて、こういう子どもが語る処世訓じみたものに、本気で感動している大人がいるんだろ? そういう人たちは普段から何にも物を考えていないってことだよ。知性の退廃もここに極まれりという感じだね」
アイチ「クマは、著者が子どもだってことにこだわりすぎじゃない?」
クマ「いや、こだわっているのは、ボクじゃなくて、この本を買った人たちさ。だって、実際、もしもこの本の著者が10歳じゃなくて、40歳だったら、売れなかっただろうし、そもそも本になんてならなかったんじゃないかな」
アイチ「まあ、それはそうかもね。40歳にもなってわざわざ何を言っているんだろうこの人ってことになるかもね」
クマ「著者が40歳だったら売れなかっただろうってことは、この本を買った人は、内容に価値を置いたわけじゃなくて、著者に価値を置いたということだ。同じことをもう一度言うようだけれど、それならそれでもいいんだよ、10歳の子が本を出した、それはなかなかできることじゃないから、そんなことをした子を応援してあげたいっていう気持ちから本を買うならいいさ。でも、そういう話と内容の価値は全然別のことだよ」
アイチ「でもさ、価値っていうのは、読む人が決めるわけだから、その内容を読んで、価値があったと思えるなら、それでいいんじゃないの」
クマ「……本当にそれでいいのかな。ここに書いてあることに価値を認めるってことは、ここに書いてあるような処世訓や人生論じみたことを、この本を読むまで全く知らなかったか、あるいは知っていたけど忘れていて思い出させてくれて有り難いってことになるよね。どっちにしたって、ゾッとしない話じゃないか」
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