カミングアウトできる人はそれだけですでに多少は幸福な人である

前回の記事に続いて、幸福について。

タレントのりゅうちゅるさんが結婚後のご自分の状況に関してカミングアウトされた。

まあ、内容に関しては賛否両論あるみたいだが、そんなことを取り上げたいのではない。別段面白くもないし、所詮は他人の家庭のこと、外野が何を言ったところで当人同士に任せるしかない、ということにしかならないからだ。

わたしが取り上げたいのは、カミングアウトできることの幸せということについてである。

カミングアウトできることが幸せだなどと書くと、「いや、お前は、カミングアウトの苦しみが全く分かっていない。それが、どれほど勇気が必要であるか理解していない」と反論されることは想像に難くない、確かに、それはその通りである。なにせ、わたしは何かをカミングアウトしたことがない。なので、その苦しみは分からない。しかし、それでもなお、カミングアウトできるということは、それだけですでに多少は幸福なのだと言いたい。

なぜならカミングアウトすることで、それが受け入れられる可能性があるからである。承認される可能性がある。その可能性があると考えるからこそカミングアウトできるとも言えるだろう。

この世の中には、カミングアウトできないことというのが存在する。

例えば、誰かが勇気をもって以下のようにカミングアウトしたらどうだろうか。

「わたしは、人に対して嫌がらせをするのが大好きで、パワハラ、セクハラ、モラハラなどの種々のハラスメントを行うことに生きがいを感じる。これまでは他人の目をおそれてこの性向をひた隠しにしてきたけれど、本当の自分との間に齟齬を感じて苦しく、もうこれ以上耐えられなくなった。今後は、ハラスメントを行うことに生きがいを感じる自分というものをしっかりと打ち出していきたい」

こんなことをカミングアウトしても受け入れられるはずもないだろう。
よって、カミングアウトはなされない。
ハラスメント大好きな彼もしくは彼女は、カミングアウトできずに苦しみ続けることになる。

そんなやついるはずがない、と思われるかもしれないが、原理的に存在する可能性があることは否定できないだろう。そうして、わたしは、現に相当数そういう人がいるのではないかと疑っている。

他にも、差別主義者であるとか、小児性愛者であるとか、カミングアウトしても社会的に許容されることがないことが当然に予想されることは、カミングアウトの対象にはならない。

そういうカミングアウトができない人に比べれば、カミングアウトできる人の苦しみは軽いと言うことができる。カミングアウトすれば、それなりに反感を得るかもしれないが、受け入れられることもあり、運が良ければ、カミングアウトしたその生き方が一つの価値観として承認されることさえある。

このように、カミングアウトできる人というのは、カミングアウトできるという点において、すでにしてある程度は幸福な人なのである。

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