生きるということは、「漫然と」生きるということ

髪が伸びてきたので、そろそろ切ろうと考えているのだが、この頃、髪を切るときに一抹の不安がある。それは、

ちゃんとまた生えそろうんだろうか?

というものである。いい年なので、そろそろ禿げてもしょうがないわけで、そのそろそろの兆候が、そろそろ見えてくるのではないか。

まあ、禿げたら禿げたでしょうがない、ということは、割と若い頃から思っていたことなので、禿げても割り切っていけるような気もするのだが、いざそうなったときと、そうなる前とではやはり気持ちが違うものだろう。このあたりの事情を、道元禅師という偉いお坊さんは、

前後ありといえども前後際断せり

と言った。けだし、名言である。

でも、これ、禿げる話に限ったことではない。

わたしたちは、明日も今日と同じ事が起こるだろうと思って生きている。明日も今日会った人と会えるし、明日も今日飲んだものと同じものが飲めるし、明日も今日したゲームと同じゲームができる。明日も学校はあるし、会社はあるし、この世界はある、とそう思って、漫然と生きている。

「漫然と生きてはいけないよ」ということはよく言われることだが、生きるということ、生活するということは、おそらくは漫然とそうすることなのである。明日学校無いかもとか、明日会社無いかもなんて考えながら生活していたら、面倒くさくてかなわない。

でも、本当はそうかもしれないって考えるとちょっとぎょっとしないだろうか。もしかしたら、明日、巨大隕石が降ってきて世界滅亡するかも……なんて、大きな話じゃなくてもいい、もしかしたら、明日、今日会っていた人が交通事故に遭っていて、その人とはもう会えないかも、とか、あり得ることである。

今日会ったその人とはもう明日は会えないかも、そんな風に考えると、その人への見方がちょっと変わってくるんじゃないだろうか。愛しい人はいっそう愛おしく、腹立つ人でも「こいつ、明日死んでるかもな」と思えば、ちょっとは腹立ちも収まるかもしれない。

明日は今日と同じようではないかもしれない

そう考えると、ちょっと生き方が変わると思う。

次は、もう髪は生えてこないかもしれない。その覚悟をしっかりと持って、近いうち、髪を切ってこよう。

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