お嬢様とヒツジとの哲学的口論「李徴はなぜ虎になる必要があったのか?」

〈登場人物〉
マイ……中学1年生の女の子。色んなことに腹を立てるお年頃。
ヒツジ……人語を解すヌイグルミ。舌鋒鋭め。


ヒツジ「珍しいな。マンガと雑誌専門のお前が、本を読んでいるなんて。何を読んでいるんだ?」

マイ「『山月記』よ」

ヒツジ「文学作品なんて、ますます珍しい。明日あたり、槍でも降るんじゃないのか?」

マイ「その槍であんたの減らず口を貫いてあげようか。読みたくて読んでいるわけじゃないわよ。国語の授業で宿題に出たの。感想書いて来いってさ」

ヒツジ「なるほどな。それで、読み終えたのか?」

マイ「たった今ね」

ヒツジ「ご感想は?」

マイ「全然意味分かんない」

ヒツジ「どこが?」

マイ「どこがって、一つしかないじゃん。なんで、この李徴って人が虎になったのかってことよ」

ヒツジ「お前、ちゃんと話を読んでなかったんじゃないか?」

マイ「読んだわよ」

ヒツジ「だったら、流れで分かるはずだろ」

マイ「この人が虎になっちゃったのは、自分がすごい才能があると思っていたけど実は大したことなくて、その才能不足を補うためにコツコツと努力する気もなければ、他人に教えを乞うこともできなくて、結果社会に馴染めなかったからでしょ」

ヒツジ「雅味に欠けるきらいはあるが、まあ、おおむねそんなところだろうな。そこまで理解できているなら、いいんじゃないか」

マイ「わたしが不思議なのはね、そんな人はこの社会に別にザラにいるじゃん、ってことなの。どうして、李徴さんだけが虎にならなければいけなかったのかってことなのよ」

ヒツジ「なるほど。李徴ではない李徴っぽいヤツらは虎にまではならなかったのに、どうして李徴だけがそうなったのか、か。これはなかなか面白い問いだな」

マイ「虎になった理由は分かりやすいんだけど、そんな理由だったら、虎にまでならなくてもいいじゃんって思うわけ。そんな社会不適合者、ザラにいるからね」

ヒツジ「お前にしてはいい着眼点だな。なぜ李徴は虎になる必要があったのか」

マイ「なんでだと思う?」

ヒツジ「さあ」

マイ「ちょっと」

ヒツジ「そんなことは究極的には誰にも分からない。なぜ李徴は虎になったのか。その理由を李徴は言葉にしたが、言葉にして了解できるということは、了解できる人間にもそうなる可能性があるということを表している。しかし、現にそんなことにはなっていないわけだからなあ。なぜだか、李徴において、虎になるという事態が成立したということが全てで、そこからしか話は始まらないんだ」

マイ「それじゃ、困るんだけど。感想書かないといけないんだから。『なぜか分からないけれど、李徴さんは虎になりました。自分には関係無いことだけど、面白かったです。』じゃ、感想文にならないでしょ」

ヒツジ「じゃあ、虎になりたかった、っていう線から考えていくのはどうだ?」

マイ「なりたかった?」

ヒツジ「そう。もちろん、虎になりたいと思ったそもそもの根本の原因はやはり分からないにしても、表層的な理由なら考えられるんじゃないか? それで感想文書けよ」

マイ「ごめん、言っている意味がよく分かんない。根本でも表層でも構わないけど、そもそも虎になりたいなんて思う人いるわけじゃないじゃん」

ヒツジ「ところがそうでもない」

マイ「どういうこと?」

ヒツジ「お前、ルサンチマンって聞いたことあるか?」

マイ「えっ、何?」

ヒツジ「ルサンチマン。現実の闘争で勝てないから、架空の闘争で勝者になることで晴らされる怨恨感情のことだ」

マイ「全く意味分からない。もっと分かりやすくいいなさいよ」

ヒツジ「『酸っぱいブドウ』の話知らないか。あるところで、キツネがブドウを取ろうとしていた。しかし、ブドウは高いところにあってとれない。キツネは言った、『あれは酸っぱいブドウ』だと」

マイ「ただの負け惜しみじゃん。それがルサンチマン?」

ヒツジ「いや、さらに一歩進めて、酸っぱいブドウを食べないのがいい生き方であり、あんな酸っぱいブドウを食べている奴らはダメな奴らなんだと考えて、空想上の勝者になったときにキツネのルサンチマンは完成する」

マイ「李徴さんも同じだってこと?」

ヒツジ「そういう節があるな。実は、虎になることが正しい生き方であって、虎になれないやつらは、自分自身に対する絶望が足らない中途半端なヤツラなんだってな」

マイ「でもさ、李徴さんは虎になったことを後悔しているわけだから、それには当たらないと思うけど」

ヒツジ「嫌よ嫌よも好きのうち、という言葉があるが、もしかしたら本心では虎になったことを肯定していたのかもしれない」

マイ「うーん、ピンと来ないなあ。だって、心底後悔しているような感じだったし」

ヒツジ「心底後悔しているとしたら、そうそうは他人の前に現れられないんじゃないか?」

マイ「そうそう現れてはいないんじゃないの」

ヒツジ「でも、虎が出ることはその地方で有名だったわけだろう。ということは、ちょこちょこと人前に現れていたわけだ。どうもここが臭いんだな」

マイ「何が?」

ヒツジ「旧友に久しぶりに会って、現状を訴えたということだが、あるいは、誰か訴えられる人を待っていたのかもしれない」

マイ「それの何がいけないの?」

ヒツジ「虎になったことを恥じているのだとしたら、それを隠すのがたしなみじゃないか。どうしてその恥をあえてさらすようなことをするんだ」

マイ「自分以外の人に対して教訓にしてもらいたいとかそういうことじゃない」

ヒツジ「しかしだな、あの世界ではそうそう虎になんてならないわけじゃないか。つまり、李徴みたいなヤツは、かなり稀なわけだ。というか、唯一かもしれない。例外中の例外みたいなヤツが他人に教訓なんて残せるわけないじゃないか。『俺みたいになるなよ』って言われるまでもなく、他のヤツらはそんなものにはなれないわけだから」

マイ「……今さ、ちょっと変なこと思いついちゃった」

ヒツジ「変なこと?」

マイ「そう。もしかしたら、あの世界ではさあ、李徴さんみたいな人たちが変身したのが虎なんじゃないの? 虎っていう種族はさ、傲慢な人間が人間の心を失って形を変えてしまったものなんじゃない? だとしたら、色々とつじつまが合ってくるような気がする」

ヒツジ「なるほど、それは考え方の一つだな。しかし、そうすると、李徴は救われないな。自分の最後のアイデンティティが崩れることになるからな。そうそう起こらないことが他ならぬこの身に起こったということがよりどころだったとして、それが他の人間にも普通に起こっていることだったとしたらな」

マイ「……でも、だったらおかしいか。それだったら、李徴さんみたいに他人に訴える人……ていうか虎がもっといてもいいことになるもんね」

ヒツジ「だからさ。もしかしたら、他の虎になったヤツらは、虎になったことを恥じて語らなかっただけかもしれない。李徴だけがそれを語った。それが作品で言うところの、『臆病な自尊心、尊大な羞恥心』であると考えられなくもないな」

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