イメージの百人一首62「夜をこめて―」

※このノートでは、百人一首のご紹介をしています。詳細な訳や、古語の解説、詠み手の経歴などは他書に譲り、各和歌のざっくりとしたイメージをお伝えしたいと思っています。イメージを伝える際、あたかもその歌を詠んだ歌人になったかのような気持ちで理解できるように、二人称を採用しています。どうぞ、お楽しみください。

【第62首】
夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
《よをこめて とりのそらねは はかるとも よにおおさかの せきはゆるさじ》

 ある晩、あなたは親しい人と話し込んでいました。夜が更けてから、その人は帰り、翌朝、「朝を告げる鶏の声に急かされて帰りました」と言って寄こします。あなたは、「鶏は鶏でも、ただの鳴きまねでしょう?」と返します。これには、ある故事が踏まえられています。

 昔、中国の秦という国で孟嘗君《もうしょうくん》という政治家が罪なく囚われの身となります。秦を脱出しようとした孟嘗君ですが、その前に函谷関《かんこくかん》という関所が立ちはだかります。この関所は朝にならないと開かず、朝になったかどうかは、鶏の鳴き声が聞こえたかどうかで判断されます。鶏が鳴くのを待っていると追っ手に追いつかれるかもしれません。そこで、孟嘗君の従者の一人が、鶏の鳴きまねをして関所を開かせ、無事、秦を脱出することができたのです。

 あなたの返事に対して、さらに、その人は、「確かにそうですが、関は関でも、わたしが開けたいのは、函谷関ではなく、あなたとの間にある逢坂の関ですよ」と返してきます。逢坂の関は、京都と滋賀の間の関のことですが、地名に「逢ふ(=深い仲になる)」が含まれていることから、それを開くとは二人が一線を越えることを暗示しています。

 ほんのからかいの言葉と受け取ったあなたは、「鶏の鳴きまねで函谷関は開いても、わたしとあなたの間にある逢坂の関が開くことは決してありませんよ」と返したのでした。

 清少納言《せいしょうなごん》

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