少女とクマとの哲学的対話「現実とは生活することではない」
〈登場人物〉
アイチ……高校2年生の女の子。
クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。
現実主義者……理想を追うことなく現実に即した考え方をする人。
現実主義者「世の中、夢見がちな人が多すぎるよね。夢を見るのもいいけれど、現実に即して物を考えなくっちゃどうしようもないじゃないの。夢見がちな考えの中でも最も手に負えないのが哲学だ。昨今、哲学がブームらしいけど、あんなもん勉強して何がどうなるっていうんだい。シェイクスピアも言っているじゃないの、『哲学でジュリエットが作れますか?』ってね。きみは、そこんところどう思う、ヌイグルミくん?」
クマ「いや、お説ごもっともだと思うよ。現実に即して物を考えなくちゃどうしようもないっていうのは、全くその通りだ」
現実主義者「ふふん」
クマ「でも、ちょっと訊きたいんだけど、キミの言う『現実』っていうのは、どういうものなんだい?」
現実主義者「哲学なら現実を抽象的に定義づけるんだろうね。でも、ぼくらは違う。現実っていうのは、生活っていうことだよ。現実を考えるっていうのは、生活を考えるってことさ。いかに生活すべきかってことをね」
クマ「なるほど。それで、そのいかに生活すべきかっていうことに対して、キミはどういう風に答えるのかな?」
現実主義者「これも簡単なことさ。幸福を目指して生活すべきだと答えるね。全ての人は幸福を目指す」
クマ「幸福というのは、どういうことだろうか」
現実主義者「おっと、人それぞれに幸福があるんだから、幸福を一義的に定めることなんかできないじゃないか、なんてそんなつまらない罠に引っかけようとする気なら、その手は食わないよ。確かに、細かいことを言えば、幸福は人それぞれ違うかもしれない。しかし、誰しも、病気であるよりは健康を、貧乏よりは裕福を、一人きりでいるよりは家族や友人がいることを望むものだろう? そういう意味で、幸福の大枠は決まっているんだよ。この幸福を目指して日々生活することが、現実的に生きるというそのことなのさ」
クマ「なるほどなるほど。確かにキミの言う通りかもしれない。人の幸福は大体の点で一致する。それでも、どうも、ボクはやっぱりピンと来ないな。仮に人の幸福の大枠が決まっていたとしても、どうして、人は幸福を目指して生きるべきなのか」
現実主義者「いやいや、本来的に人は幸福を目指して生きるものなのさ。そこに至るともう、『べき』とか『べきじゃない』とか、そんなことは言えないんだよ」
クマ「それは本当のことだろうか。まあ、ボクはヌイグルミだから、人の気持ちを代弁することはできないけれど……アイチ」
アイチ「なに?」
クマ「キミは幸福を目指して生きているかい?」
アイチ「幸福……? そんなの考えたこともないなあ」
クマ「本来的に幸福を目指して生きる存在であるはずの人間の中に、現に幸福を目指すことを意識していない人がいたわけだけれど、これについては、どうなるんだろう」
現実主義者「いやいや、それは、その子が今まさに幸福だからだよ。何不自由なく暮らしているから、かえって幸福が意識できていないんだ」
クマ「とすると、みんなが幸福を目指すとキミは言ったわけだけれど、みんなが目指しているわけじゃないということになるね。現に幸福である人は、幸福を目指さないわけだ」
現実主義者「そりゃそうでしょ」
クマ「だとすると、現に幸福でない人は幸福を目指して生活するとしても、現に幸福である人は、いったい何を目的にして、生活するのだろうか」
現実主義者「その幸福を失わないようにするために生活するんだよ」
クマ「なるほど。ところで、キミは、幸福の要素の中に、心の平穏があることを認めるよね。もしも、健康で、お金があって、友だちがいても、心が満たされていないと幸福とは言えないよね」
現実主義者「まあ、そうかな」
クマ「そうすると、おかしなことになるんじゃないかな。というのも、幸福を失わないようになんていう心の構えは、とても平穏とは言えない。いったん手に入った幸福を失わないようにしなければ、なんて絶えず警戒している心が平穏なものとはとても思えないからね。だとすると、現に幸福である人は、現に幸福であることによって、幸福じゃないということにならないかな?」
現実主義者「いやいや、ちょっと待ってくれよ。何か議論がおかしい。もう一度、幸福について定義させてくれ。幸福というのは、その心の平穏が手に入った状態まで含めて幸福というんだ。真の幸福だ」
クマ「なるほど、でも、そうだとしたら、真に幸福な人というのは、もう心の平穏まで手に入っているんだから、さらに何かを求めるということはなくなるわけだよね。求めるという気持ちが、心の平穏を乱すわけだから。だとすると、真に幸福な人は何のために生活するんだろうか」
現実主義者「…………」
クマ「真に幸福な人というのは何のために生活するということもない。つまり、ただ生活する。いかに生活すべきかなんてことも考えない。キミは、最初に、いかに生活すべきかということを考えることが現実を考えることだと言ったけれども、その究極的な形が、いかに生活すべきかということを考えない、つまり現実を考えないということになるわけだけど、それでいいのかな?」
現実主義者「うーん……何を間違えたんだ?」
アイチ「現実っていうのは、生活に限られないんじゃないの?」
現実主義者「じゃあ、教えてもらいたいもんだけど、現実っていうのはなんだい?」
アイチ「ここにこうして存在するってことじゃない?」
現実主義者「やれやれ、そりゃどこの哲学者が言ったことだい? ハイデガー?」
アイチ「ハイデガーなんて知らない。ただ、人は、生活しないことはできるけど、存在しないことはできないんだから、生活するよりも存在することが先なわけでしょ? そう考えただけだけど」
現実主義者「しかしね、きみ、存在について考えるなんていうのは、いったい何をどう考えるってことになるんだい?」
アイチ「そんなこと、わたしに訊かれても困るよ。わたしだって、分からないんだから」
クマ「それこそが、キミが嫌う哲学が扱う領域なんだ。哲学しか扱えない領域と言ってもいい。人は生活しなければいけないと考えて、どのように生活すべきか考えるのがキミたち主義者だとしたら、哲学は、『人は生活しなければいけない』となぜ人は考えるのか、と問う。それは、存在へと開かれた問いなんだ。アイチの言うとおり、存在は生活よりも先にある。としたら、存在とは何かを問う方が、よっぽど現実的なんじゃないかとボクは思うね」
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