努力と偽の幸せ

努力は尊い、たとえ結果が出なくても結果に向かって努力したこと自体が価値あることなんだとはよく言われることだが、果たしてわたしたちは、日常普通の生活において、それほど努力に価値を置いているだろうか。

たとえば、好きな人に告白したとする。好きで好きでたまらない人に、やっとの思いで告白したとして、しかし、断られた。そのときに、「断られたけど、告白したわけだし、『付き合う』という結果に向かって努力したわけだから、まあ、70点だな」と思うだろうか。まさか、そんなことはないだろう。点数をつけるなら、0点だろう。

新しい料理にトライしたとする。食べてみたらまずかった。そのときに、「確かにまずいけど、頑張って作った。『美味しい料理を作る』という結果に向かって努力したわけだから、80点だ!」と思うだろうか。そんなことないだろう。まずかったわけだから、0点である。

日常生活において、わたしたちは、0点か100点かの世界に生きている。その世界では、努力なんていうのはするのが当たり前の話で、努力することそれ自体に価値なんて認めていない。目標とすることを成し遂げられれば100点、成し遂げられなければ0点、それしかない。

そういう風に考えると、努力が尊いなんていう話が一体どういう文脈で現われてくるのか、逆に、不思議な気持ちになる。努力は、どういう場面で出てくるのか。

それは、失敗した人をなぐさめるという場面である。成し遂げられなかった人に対して、「あんなに頑張って、それでも失敗したんだから、それはもうしょうがないよ。目標はかなわなかったかもしれないけれど、その努力は尊いよ」というような具合である。あるいは、それを、自分が自分自身に対して言い聞かせることもあるだろう。それ以外で、努力が尊い、ということをあえて口にする場面はないのではないか。

ということは、「努力が大切だ」と言うことは、言った相手に対して、「失敗してもいいんだよ」と伝えているということになる。それは、果たして、その相手のためになることだろうか。日頃、成功しなければ価値がない世界に生きているのに、「失敗してもいい」ということを伝えることは。

わたしは、何が何でも成功しなければならない、などということを言っているわけではない。わたし自身、別に成功した生活を送っているわけでもなんでもない。何だったら、生活に困っているくらいのものである。

わたしが言いたいのは、成功を価値として生きているのが普通の世界に、「努力こそが尊い、失敗にも価値がある」という言説を持ち込む人間には、非常な底意があるのではないかということだ。そういう言説にうまくだまされることができる人は幸せかもしれないが、それは誰かに作られた偽物の幸せであるということは覚えておいた方がいい。

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