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少女とクマとの哲学的対話「作品を見るのか、作者を見るのか」

〈登場人物〉
アイチ……高校2年生の女の子。
クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。

クマ「何聴いてるの?」
アイチ「ん? BUMP OF CHICKENだよ」
クマ「ああ、いいよね、バンプ。歌詞の、その物語性がいいって言う人もいるけど、ボクは違うな。この世界の真理を語ろうとする意志がはっきりと見られるところ、そこが好きなんだ。たとえばこれは、『真っ赤な空を見ただろうか』から。

ひとりがふたつだったから 見られる怖さが生まれたよ
ひとりがふたつだったから 見つめる強さも生まれるよ

ボクがあんまり音楽を聴かないからっていうのもあるかもしれないけど、こんなに端的に自己と他者の関係を表した歌詞は他に無いと思うな」
アイチ「真理を語ろうとする意志が見られるところが好きって言うけど、結局それは物語を作ることになるんじゃないの?」
クマ「うん、まあ、それはその通りだね」
アイチ「……やめよ、やめよ。歌を聴くのに理屈なんていらないじゃん?」
クマ「聴くのにはいらないけど、語るのには必要なんだよ。ちょうど、バンプが世界を語るときに音楽を必要とするように。その音楽を語りたいと思ったら理屈が必要になるのさ。そうして、どうして語りたいのかって言えば、それはもちろん、好きだからってことになる」
アイチ「わたし、バンプの曲の全部が好きってわけじゃないんだ」
クマ「そうなんだ」
アイチ「うん。好きな曲もあれば、ピンと来ない曲もある。これ言って、バンプ好きの友だちから怒られちゃったよ。ファンならどんな曲でも好きなハズでしょって」
クマ「なるほどね」
アイチ「でも、それっておかしくないかな。だってさ、たとえば、好きな人がいたとして、その人のすることの全部が好きってわけでもないでしょう?」
クマ「それは程度によるんじゃないかな。その人に心底惚れ込んでいる状態だったらさ、アバタもエクボってことで、することの全部が好きになるんじゃない?」
アイチ「うーん……そういうのよく分からないな」
クマ「アイチの立場と同じで、作品を鑑賞するときは、作者と切り離すべきだって言う人がいるね。作品それ自体を評価の対象にするべきだって。まあ、ボクも基本的にはそれに賛成だな。どんなに優れた作者だって、作品の数が増えてくれば、質の悪いものだってできるものだからね」
アイチ「わたしはね、バンプそれ自体には全然興味無いんだ。バンプの歌には興味あるんだけど。バンプのメンバーがどういう人たちなんだろうっていうことは特に知りたいと思わないの」
クマ「作者には興味が無いってことだね。やっぱり、アイチは作品だけを鑑賞するのがいいんだね」
アイチ「うん」
クマ「それもいいと思うけどね、ボクはね、作者を全的に信頼するのも面白いと思うんだ。それによって、ピンと来ない作品の感じ方が変わってくる」
アイチ「全的に信頼する?」
クマ「うん。作者をね、まるごと信頼するんだよ。そうするとさ、ピンと来ない作品を鑑賞したとき、どうして、こんなものを作ったんだろうと考えるよね。完全に信頼を寄せている彼らがなんでこんなものを作ったのか。すると、『たまたまそういう気分だったのかな』とか、『何か大人の事情があってそうしたのかな』とか、色々と興味深い思いを抱くことができるわけだよ」
アイチ「それで、そのピンと来ない作品が楽しめるようになるの?」
クマ「まあ、その作品がつまらないことには違いないんだけど、でも、そのつまらなさが愛おしくなるわけだね」
アイチ「うーん……やっぱりよく分かんないな」
クマ「それならそれでもいいさ。別にどっちが正しいって話でもないからね。よし、この話はこれでおしまい。『メーデー』をかけてよ」

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