人はいつから死ぬことを許されるのか

この頃、芸能人の自死が相次いでいることで、日ごろ死について考えない人も、少しは考えるようになっているのではないか。「あの人はどうして死を選んだのか?」という問いは、「わたしはどうして死を選ばずに生きているのか」という問いにつながるところがあるはずである。

あなたはなぜ死を選ばずに生きているのか。

この問いに答えるとしたら、どんな答えが用意されるだろうか。

やりたいことをやるために生きている。
死ぬ理由が無いから生きている。
死ぬことは罪に当たるから生きている。
単純に死ぬのが怖いから生きている。
せっかく生きているのだから死ぬまでは生きようと思って生きている。

そんな感じだろうか。
どれもこれも分かるような分からないような感じである。
というのも、これらは裏を返すと、

やりたいことが特にないから死のう。
生きている理由が無いから死のう。
死ぬことは特に罪に当たらないので死のう。
死ぬことは怖くないので死のう。
せっかく生きているという感覚も無いから死のう。

ということになって、容易に死ぬ理由へと転化するからだ。

しかし、問題は、「死を選ばずに生きている理由がよく分からない」ということなどではなく、よく分からないにも関わらず、人が死ぬと、とりわけ自死によって死ぬと、その人の死が、何か不穏当なものと解釈されるということである。何かまっとうではない、よくないものとして考えられる。そうして、非難する。

大した理由もなくただ生きているというそのことによって、死を選んだ人を非難する正当な権利を持っていると考えている人がいかに多いことか。

「残された者のことを考えろ!」
「事前に相談してくれればよかったのに!」
「死ぬ気になれば何でもできるだろ!」

あるいは、それらを自分たちに向けて、

「もっと気遣ってあげればよかった……」
「病気だったのかもしれない、病院に行かせていれば……」

などと自分を非難することも、死をよくないものとして考えている点では同じことである。

人が死ぬのは、とりわけ親しい人が死ぬのは悲しいことかもしれないが、もっと悲しいのは、人が生き続けなければならないとされているということではないか。あるいは、そういうこの世に見切りをつけて彼らは、彼岸に旅立ったのかもしれない。

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