美しいものは人をニヒリストにする ~ニヒリズムのすすめ~

ニヒリストというのは、ニヒリズムを抱く人のことを指す。ニヒリズムというのは、あらゆるものごとに価値が無いという思想である。お金を儲けることにも価値は無い、健康にも価値は無い、友だちを作ることにも価値は無い、良く生きることにも価値は無い、ていうか、生きること自体に価値が無い。それだけ聞くと、なんか暗そーな考え方だなあと思うかもしれないけれど、ごくごく普通に生きている人もニヒリストになる瞬間があると言ったらどうだろう。

たとえば、失恋したとき。好きで好きでたまらない人が自分のものにならないと知ったとき、自分の命も含めて全てのものに価値がないと思うことは、恋をしたことがある人なら誰しもあるのではないか。それってニヒリストかと言えば、それも立派なニヒリストである。失恋もそうだけれど、愛する人に先立たれたときなども、ニヒリストになる契機となることだろう。すると、絶望がニヒリストを作るのかと言うと、確かにそういう面もあるのだろうと思うけれど、また別な側面からということもある。

論理的に考えて行って、あらゆるものごとに価値が無いという考えに至ることもあるだろう。自分が存在していることがそもそも無価値だとしたら、自分ならぬ他人が存在していることだって無価値となる。お釈迦様のいわゆる、「天上天下唯我独尊」というのと、「一切衆生悉有仏性」というのは、このあたりのことを言っているのではないかと思うのだけれど、これはちょっと話がそれる。いずれどこかで。

わたしにも日常生活の中で、ニヒリストになる瞬間というものがある。いや、わたしは、ベースがニヒリストではある。世の中が価値だと言っていることの大方はどうでもいいので、そんなのどうでもよくない? と大体思っている。お金を儲けることも、友人を作ることも、オリンピックもどうでもいい。

ベースがニヒリストなのだけれど、それをもっとこう何というか、頭で理解するというよりは、肌感覚で強烈に実感として得るときがあって、それがどういうときかというと、美しいものを見聞きしたときなのである。美しい風景を見たり、美しい音楽を聴いたりすると、それらだけに価値があって、それら以外のものに価値を認められなくなるわけである。それじゃあ、その美しいものそれ自体には価値があるわけだから、全てのものに価値がないということにはならないじゃないかという反論もあるかもしれないが、価値というのは相対的なものであって、比較対象がなければ価値なんてものはなくなってしまうわけである。美しいものを見聞きすると、それしかなくなるわけで、他と比較するものがないわけだから、価値というものもなくなってしまうわけだ。まあ、そんな理屈はどうでもいい。美しいものを見聞きするとその他のものはどうでもよくなってしまう。この頃、そういう気にさせられたものが、以下の音楽。

映像はちょっと微妙なので、音楽(特に歌詞)だけ聴いてもらえるといいのだけれど、まあ、美しい。もちろん、好みの問題だから、これを聴いても何も感じない人もいるだろうけれど、それはわたしには関係ない。こういう美しい音楽を聴いていると、その他一切のことがどうでもよくなる。バンプはわたしをニヒリストにする。

バンプの楽曲を聴いたときの他に、美しい風景を見たときなんていうのも、わたしにとっては、ニヒリストになるきっかけである。猪苗代湖畔の景色など見ていると、風景と一体化して、その他一切のことがどうでもよくなってしまう。

ということは、美しいもののことだけ考えていれば、強力なニヒリストでい続けられるのではなかろうか。しかし、これは中々難しい。ずっとバンプの曲を聴いていることはできないし、ずっと美しい風景を見続けるというわけにもいかない。でも、それをすれば、ニヒリストの実感を得られるということを知っているかどうかということだけでも、人生の奥行きが変わってくる。

人生を足し算で考えている人が多いように思われる。人生を足し算で考えるというのは、これをすれば(あるいは、しなければ)幸せになれるという考え方のことを言う。そういう人が多いというか、ほとんどそうなのではないか。ニヒリストは、それに対してNOを突きつける。それって本当に意味あるの、と問う。それは、幸福を目指して日々努力している人からすれば、余計なお世話だろう。しかし、そうやって幸福を目指して努力している人々も、あるときふと、「いったい、わたしは何のためにこんなことをやっているのだろう」と思うこともあるだろう。もしも無かったとしたら、人生を足し算で考えて満足できる人だとしたら、それはただのバカである。もちろん、バカであるが幸福であることは間違いない。幸福なバカである。バカではない半端にさかしい人間は幸福追求しつつも考える。「こんなことしていて意味あるのか」と。そんなとき、ニヒリスト経験がふんだんにあれば、意味が無いということの意味が分かって、人生の奥深さを知り、再び力強く幸福追求への道に戻ることができるだろう。ニヒリスト経験がきちんと無いと……まあ、宗教あたりにはまるしか道はなくなる。

真性のニヒリストにならなくとも、ニヒリスト経験をきちんとしておくことをぜひお勧めする。そのためには、美しいものを見聞きすることである。美しいものを見聞きすることで、美しくない自らの無価値を実感する。無価値な自分が生きているということの価値が何なのか考えることが、人生を豊かにするというと逆説的ではあるのだけれど、それが正しいということは、やってもらえれば分かる。

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