今年の抱負「子どもになって遊ぶ」

今年の抱負という言い方をわたしは好まない。なんとなれば、今年一年、生きているかどうか分からないからである。と言って、別に、不治の病に冒されているというわけではない。わけではないが、東日本大震災以後、いつ死ぬか分からないということを認めているので、今年一年において成し遂げたいことなどという言い方に信用がおけないのである。

人は、今年の抱負と言うが、それはすなわち、来年の抱負もあると思っているということをあらわしている。今年はこれをやりたい、来年はこれをやりたい。結構である。しかし、そうやって、毎年やりたいことを設定して生きる人生というのは、一体いかなるものなのか、今一つ腑に落ちない。

だからといって、もちろん、人は、やりたいと思うことを今すぐ実現することができるわけではない。当たり前。やりたいと思うことを実現するためには時が必要である。それがゆえの、今年の抱負、来年の抱負、という言い方である。今年はこれこれをやって、来年はこれこれをやろう、そうして、いずれはこうなろう。

何か大きなことを成し遂げようとすれば、必ずそのような考えにならざるを得ない。しかし、どうもわたしはこれが気に入らないようである。そうせざるをえないことに好き嫌いを言うのは、子どもの振る舞いだが、どうしたって気に入らないものはしょうがない。

そう、子ども。子どもは先のことを考えない。今さえ楽しければそれでいい、という意識のもと、日々生きている。……まあ、今時の子どもは、もっと計画性があるかもしれないが、少なくとも、わたしが子どもの頃はそうだった。明日という意識がほとんど無かった。

明日を思いわずらうな、今を楽しもう……と、こう言えば、これは大人の言い方である。「今」が、「明日」との対比のうちにある。子どもは、対比などしない。明日と対比しないということは、今という意識も実は無い。明日を知ったわたしは子どもに戻ることはできないけれど、かつてそうであった頃があったわけだから、多少なりともそれを思い出すことはできるはずである。

子どもになって遊ぶ。

これを今年の抱負としたい。

そうして、願わくば、「抱負」というこの言葉をすっかりと忘れてしまいたい。言うまでもなく、遊ぶ子どもは、抱負など持たないからである。

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