人生には意味が無い、だから価値がある

読むべき本について

小林秀雄がどこかで、「わたしは考えながら書いており、書きながら考えている。はじめから明確に書く内容を決めてから書き出すことはない」というようなことを書いていたと思う。それに倣って、わたしもタイトルの件について、考えながら書きながら、それによってさらに考えながら書いてみたい。だらだら書くことになると思う。

ところで、小林秀雄のことを知らない人はぜひググッてもらいたい。批評家である。文章はもしかしたら、ちょっと難しいかもしれないけれど、読めれば大変有益なことが書かれてある。最初に読むなら「考えるヒント」あたりがお勧め。でも、やっぱりちょっと難しい。そのうちに、できたら小林秀雄のレビューのような文章を書きたいと思っているが、予定は未定。

今「読めれば」と書いたけれども、「読めれば」という条件をつけなくてはならない本は今どのくらい読まれているのだろうか。ちまたには、読みやすい本が溢れている。そうして、それらの本を読んで情報をインプットすることが読書だと思われている節がある。しかし、そういうものをわたしは読書とは呼びたくない。まあ、語の定義の問題にもなろうから、どう呼んだって構わないということも言えるのだけれど、「読書」というのは、それによって自分自身の人生に対する見方、世界の感じ方を、まるきり変えてしまうような体験である。情報のインプットなどではない。その本を読んだことによって、読む前とは明らかに自身が変わらなければ、そんなものは読書の名に値しない。たまに、本を月に何十冊も読んでいますと自慢するような輩がいるけれど、バカじゃないか……とまでは思わないけれど、それが本当の読書だとしたら大変だなあと思う。月にどんだけ人が変わるんだということになるからである。まあ、変わったって構わないけど。

そういうものは、単なる情報のインプットに過ぎないのである。月に何十冊分の情報を得たというだけのことである。もちろん、情報が無いよりはあった方がいい。何だってあった方がいい。夏も小袖。しかし、それはそれだけのことでもある。昔は、そういう多くの情報を持っている人が尊ばれた。情報を持っているということそれ自体が価値だったのである。今では、スマホ一つあれば情報は全て知ることができる。「情弱」という言葉があるが、あれは情報を知らない人を指す言葉ではなくて、情報を知ろうとしない人を指す言葉に過ぎない。

読書について、もう一つ述べておく。本の要約ということがはやっているようである。youtubeでいくらでも散見する。これは大変便利で、わたしもよく利用している。わたしは皮膚や胃腸が弱いので、健康系の本を要約してくれている動画を見ることで、実際にその本を購入する手間や読む時間を省きつつ、皮膚や胃腸を良くすることに関する知見が得られる。そういう恩恵を得ていながらあしざまに言うのはどうかと思うけれど、要約できるような本は、そもそも読むに値しないのではないか、という気がどうしてもする。要約というのは、要するにこうだというものであって、たとえば、ある健康本の場合は、要するに良質な水と塩を取れというものだった。要点を知ることができればそれで本を読んだ目的が達せられるとすると、つまりは読む必要などなかったということにならないか。「動画が気に入ったら本を購入してほしい」と要約しているyoutuberは言っていたが、youtubeで十分に理解できたのに、その上、本を読む必要あるだろうか。無いのだとしたら、そもそも、そういう本というのは、本にする意味が無かったのであって、データや研究結果を載せるとしても、そんなものも数ページあれば足りるだろう。少なくとも、何十ページも、何百ページも読む価値は無いと言える。

容易に要約することなどできない本こそが、読むべき本である。結論ではない。どのようにしてその結論に到達したか、その過程に重要性がある本が真に読むべきものだろう。そうして、これは本だけにとどまらない。たとえば、人生の要約とは何か。それは、生きて死んだということだろう。人生の要点を知りたければ、生まれて死ぬというこれだけ分かっていればいい。しかし、どこの誰が、わたしの人生とは、わたしが生まれてやがて死ぬことだ、と言うだろうか。また、恋の要約とは何か。出会って別れたということである。しかし、どこの誰が、わたしとあの人との恋は出会って別れたというそれだけのことです、と言うだろうか。まあ、言う人もいるかもしれないけれど、それらは韜晦というべきものであって、本心でそんなことを考えていたとしたら、ただのアホである。なぜなら、当然のことながら、生まれて死ぬまで、出会って別れるまでが、人生であり恋であり、過程こそが重要だからだ。大事なのは、結果ではない。

のっけから、随分と話が変な方向にずれた。小林秀雄を引き合いに出したからだった。ところで、「自分の文章に著名人を引っ張り出して、どこそこの誰それがこう言っているみたいなことを書く文章は読む価値がない」という意見があって、わたしも基本的にはそれに賛成なのだけれど、引き合いに出した人の主張を批判的に考えるときは話は別である。すなわち、引き合いに出さないと話が進まない場合は、出すほか無いのである。わたしの場合は……まあ、特に引き合いに出さなくても話は進んだわけだけれど、とりあえず、読む価値のある文章ということを考えたときに、小林秀雄がパッと出てきたので述べたのである。

さて、表題の件だけれど、これは読書や要約の話と実は関係があるのである。読書や要約を見聞きするのは、それによって生活を豊かにするためだろう。読書したり、本の要約を聞いたりして、生活をより良いものにする。いいでしょう。しかし、それだけでいいのだろうか。インプットのための読書をしたり、本の要約を聞いたりして、情報を得る。その情報によって暮らしやすくなる。それだけでいいのだろうか。それ以外に何があるんですかと問うとしたら、それをこそ本に問うべきだろう。それが分からないとしたら、本を読んでいる意味が無いということにならないか。

生活の内容を良くしよう良くしようという考えは、生活の何であるかが分かっているからこそやることだろう。では、生活とはいったいなんだろうか。生きて死ぬというこの人生の形式とはどういうものなのだろうか。人生の意味とはどういうものだろうか。人生それ自体の意味を、人生の内容を良くすることで答えることはできない。人生の内容を良くして、楽しく暮すことができるようになったとして、それでいいのだろうか。楽しく暮してそれだけでいいのだろうか。あるいは、人のために尽くしたとする。人に尽くして充実感を得て、それでいいのだろうか。それが一体何なのだろうか。

人生の意味

では、お前は人生の何であるかを知っているのかと言えば、知っているとも知らないとも言えない。人生には意味が無い。そういう意味では知っているとも言えるし、意味が無い人生のその無さを知らないとも言うことができる。知らないということだけは明確に知っているのだけれど。

人生には意味が無い。

こう言うと、随分悲観的なヤツだなあと思われるかもしれないけれど、これは悲観主義なんていうものとは何の関係も無い。ただの事実を述べただけのことである。それが事実だと思っているというそのことが、悲観主義のあらわれではないかとさらに突っ込む方もいるかもしれないが、人生に意味が無いということが悲観的なものの見方だとそう思っているというそのことが実はあなたが悲観主義に毒されているというそのことなのであると言いたい。

人生に意味が無いというのはニュートラルな事実である。というのも、仮に人生を根拠づけてくれる何かあなたよりも上位な存在があるとしても、その上位の存在を根拠づけてくれる上位の存在は存在しないからである。存在してもいいけれど、それではどこまでいっても、無限背進に陥るだけのことだ。

何かしらの使命を持っていると思って、日々の生活にいそしんでいたとしても、その使命というのは、単にその人がそう思い込んでいるだけのことであって、根拠は無い。ゆえに、そんな使命というのは実は無いのである。

もう少し別の言い方をしてみよう。誰も望んでこの世に生まれてきた者はいない。親に頼んで、「わたしを生んでくれ!」と言った人はいないだろう。つまりは、自分の意志によらずして生まれてきたわけだ。そうして、自殺を除けば、自分の意志によらないで死んでいく。意志によらないわけだから、実は、わたしたちには、自身の誕生と死というものが、どういうものなのかは分からない。ということは、誕生と死の間であるこの人生も自分の意志によらないと言って構わないのではないだろうか。

そもそもが、自分の意志によらない、自由にならないものだということを認めると、「どうして、思い通りにならないのか」という気持ちも消えて、すっきりと生きていけるのではないか。世の中には、「人生をコントロールしましょう」的な言説が溢れているけれど、そんなことはまず不可能である。コントロールできていると思っている人は、そう思い込める範囲のことをコントロールしているに過ぎない。ここに大いなる皮肉がある。というのも、コントロールできて自分の思い通りに生きていると思い込んでいる人は、コントロールできず自分の思い通りに生きることができないと思っている人よりも、真実から遠いということになるからである。幸福な人ほど真実から遠い。

幸福について

で、幸福について。

猫も杓子も幸福を求める世の中だが、実は、幸福になるのは簡単なのである。めちゃ簡単。今すぐにでも幸福になれる。どうすればいいのかというと、無い使命をあると見なせばいいのである。自分の人生には何らかの意義があるのだと、そう思いみなせばいい。意義は何でも構わない。宗教のようなものでもいいし、社会的な役割でもいいし、もっと個人的なものでもいい。そういうもののために自分が存在しているのだと思いみなすことができれば、すぐに幸福になることができる。たとえば、わたしみたいにごちゃごちゃと何かしらを書いている人間が、「書くことこそがわたしに与えられた使命だ!」と強力に思いみなすことができれば、わたしはその使命通りのことをやっているのだから、幸福になることができる。たとえ、その使命を果たすことができない状態であっても、使命を果たそうとするだけで、つまりは、書こうと努めるだけで幸福になれる。このようにして、青い鳥を誕生させることができる。その辺にいる鳥を青く塗ればいいだけの話である。

これこそが幸福の秘訣である。簡単でしょ? 誰しもが、なろうと思えば今すぐに幸福になることができるのである。お金が無くて不幸な人は、「お金を儲けることこそがわたしに与えられた使命だ」と思いみなして、そのための努力を始めればいい。健康を害して不幸な人は、「健康になることこそがわたしに与えられた使命だ」と思いみなして、そのための努力を始めればいい。恋人がいなくて不幸な人は、「恋人を作ることこそがわたしに与えられた使命だ」と思いみなして、そのための努力を始めればいい。そのときに、ちょっとしたコツとしては、個人的な目的を社会的な利益にすりかえることである。つまり、お金が無くて不幸な人は、「現にお金が無いわたし自身ではなく、わたしと同じようにお金が無くて不幸な人を救うことこそが、わたしに課せられた使命なんだ!」といった具合である。こうすると、幸福になるのが、もっと簡単になる。というのも、自分一人のことよりも、社会のみんなのためと考えた方が、より使命っぽいからである。「ぽい」だけ、より容易にそれを信じることができる。わたしだったら、「書くことによって、それを読んでくれた人に真実を気づかせることこそがわたしの使命だ!」ということになる。

使命を持てば、人は幸福になることができる。あるもののために心から努力することができれば、その努力が実ろうが実るまいが、幸福なのである。実際にやってもらえるといい。使命を持つこと。自分の人生に意義があると思いみなすこと。これこそが、唯一無二の幸福の技術である。

さて、でも、勘のいい人は、「でも、そんなのウソじゃん!」と思うことだろう。そう、ウソである。だって、そんな使命みたいなものは無いからである。もう一度繰り返すことになるけれど、人生には意味が無い。意味が無いのだから、意味づけしてくれる使命なんてものも無い道理である。では、わたしは長々とウソをついてきたのかと言うと、実は全てがウソと言うこともできない。言いたくないのではなくて、できない。というのも、人生に意味が無いということは、裏返し、どんな使命を持っても自由だと言うこともできるからである。あなたの目の前に、真っ白い画用紙が用意されているとする。そこに何を描いても自由、何を描くかはあなたに任されている。だから、これこそが我が使命だということを、そこに描き出してもいいのである。ただし、他人から、「これを描け。描いた方がいい」と言われるものは、全て間違っている。そういうことを言っている。

そんな使命無いよと言う人もいることだろう。そもそも無いわけだけれど、使命だと仮に思えるようなことも無い。真っ白い画用紙に自由に絵を描けと言われても、そもそも絵を描くことが嫌いなんだと言う人もいたっておかしくない。それはそれでいいのである。幸福を目指さなければいけないということはない。全ての人は幸福を目指すという言い方がある。人生の最終目標は幸福になることだと。ここまでの話でおおよそ理解してもらえたと思うけれど、あんなものはウソである。人生に意味が無いわけだから、意味の無い人生に目的などありえない。

使命が無いと幸福にはなれないけれど、なれなくたってどうということも特に無いのである。心配しなさんな。ちょこまか忙しく生活して充実していそうな人も、日がな一日なんにもしなくて何となく日を過ごしていても、どっちも同じなのである。意味の無い人生をどう送ったかということの違いに過ぎない。もちろん、その中身の方が重要なんじゃないかという言い方もできるけれど、それはあなたが中身を重視したからに過ぎない。

しかし、人生とは中身が重要、過程こそが人生ではなかったか? そのはずだったが、ここまで考えてくると、そういうわけでもなさそうである。

人生の価値について

人生には意味が無い。あらかじめ定められたものが無い。しかし、まあ、あると言えばある。これこれこういう国に、これこれこういう時代に、これこれこういう両親から生まれたというところが、すでに定められたそれだと言うこともできるだろう。それによって、自分の人生が規定されていると言えば運命論じゃないかと思われる向きもあるかもしれないけれど、「あることがそうであって、そうでなくはなかった」というのは単なる事実であって、運命なんて壮大なものを引っ張ってくる必要は無い。別に引っ張ってきてもいい。運命は使命の親である。運命を信じることができれば、これもまた幸福に多大に寄与する。

人生には意味が無い。しかし、価値はある。いや、実は、「しかし」ではない、「だから」である。意味が無い、だからこそ価値がある。こう言うと、何やら逆説めいて聞こえるだろうか。意味が無ければ、価値だって無いではないか、というのが、考えの筋としては正しそうだけれど、意味が無いということは、意味が無いものが存在しているという点において、非常に価値があることになる。

いいですか。人生に意味が無いとすればと、意味が無いものがこうして存在していることには非常に価値があると思えるのではないだろうか。なにせ、そんなものは他に無いからである。他のあらゆるものは何らかの意味のもとで存在している。はさみは物を切るためにあるし、木は二酸化炭素を吸収し酸素を放出するためにある。しかし、人生だけは、そうではない。この人生という形式は、その他のあらゆるものを意味づけるためのものだ。そうして、それ自体には意味が無い。

どうして、こんな人生なんてものが存在してしまったのか、と問うたことは誰しも一度はあるのではないか。「どうしてわたしは生まれてきたんだろう」的な。無いとしたら、それもまた幸福なことである。鈍感で疑問を持たない人は幸福な人である。これは皮肉ではなくて、鈍感というのは、一種の美徳であると思う。わたしも、それなりに鈍感な方かもしれないけれど、もっともっと鈍感になりたいと思わないでもない。人生の意味とか無意味とかなんとかそんなことを考えずに、ただ人生の中身に一喜一憂して暮らしていけたらいいと思わないこともないのだが……まあ、やっぱりそれはちょっと面白くないかもしれない。ライフプランのことを考えて、それがうまくいったりいかなかったりに左右されて、嬉しくなったり落ち込んだりということを繰り返していずれ死ぬというのは、なんだかバカみたいではないだろうか。それを深く認識して、人間とはそういうものだと思いみなして生きるのであれば、それはそれで立派なことだろうと思うけれど、そうではなく、周りの人がそうしているので何となくそうしているというのは、本当にアホらしい。

意味が無いものが存在しているということの意味は、無意味ではない。それは、非意味とでも言いたいようなあり方である。意味「が無い」のではない。意味「ではない」のだ。それ自体は意味ではなく、意味を成立させるあり方をしているのが、人生である。

人生を解放しよう

人生に意味を求めるような考え方は全て間違っている。そのような窮屈な考え方から、あなたの人生を解放してみてはどうか。あなたの人生における幸福や生き甲斐や夢や目標や、それらを追い求めた結果としての失敗には、何の意味も無い。意味ではない。それらを求めること、それらを得られなかったことは、いいことでも悪いことでもない。ただ、なぜか、たまたまそうだったというに過ぎない。そうして、そのなぜかたまたまそうだったそのことは、当のあなたにしか起こらなかったことである。だから、幸福も不幸も、成功も失敗も、等しく価値がある。幸福や成功に価値があるのはともかく、不幸や失敗に価値があるのは、それをその後の幸福や成功につなげられるから、などでは決してない。その不幸や失敗が、何の意味も無く当のあなたにしか起こらなかったというところに価値があるのである。人生は、実はそういうあり方をしている。

だから、あなたはあなたの人生を生きているだけで、価値がある。わたしもわたしの人生を生きているだけで価値がある。……まあ、胃腸や皮膚がもうちょっと強かったらいいのにと思わないでもないけれど、そういうことが意味も無くわたしに降りかかってきているというところに価値があるのである。そういう風に書くと、何やら変な開き直りみたいに聞こえるけれど、そういうわけではないのである。ああ、指かゆい。

「人生においてなすべきこと」的なことを考えて実行するのはいい。しかし、実行しなければいけないと考えることは間違っている。実行しても、しなくても、人生には等しく意味が無い、だからこそ、価値がある。

読んでくださってありがとう。もしもこの記事に何かしら感じることがあったら、それをご自分でさらに突きつめてみてください。きっと新しい世界が開けるはずです。いただいたサポートはありがたく頂戴します。