哲学は役に立つのか

今ちょっとはやりの哲学だが、いったい哲学というのは、何の役に立つのだろうか。そもそも哲学とは何か。哲学は、物事の本質を考えたり、世界の真実をとらえようとしたりする学問である。で、それって何の役に立つのか。

結論から言ってしまうと、哲学は何の役にも立たない。世の中では、哲学は、すごくためになるよ、生き方が変わるよ、みたいに大変有用なものとして喧伝されているが、それはその哲学に関する本やサービスを売りたい人間がそう言っているだけであって、哲学は本来、有用性とは無関係なものである。

どうしてそう言い切れるのかと言うと、哲学というのは、物事の本質を考えたり、世界の真実をとらえようとしたりして、とことん疑っていく学問だからである。「いいじゃないか、とことん疑ってこそ、常識にとらわれない発想が生まれるんだ」なんて感想を抱くこともできそうだが、そんな常識にとらわれない発想がうんたら、なんていう生やさしい話ではなくて、もう本当にとことん、この世の一切合切を疑い尽くすのが哲学なのだ。

たとえば、デカルトという哲学者がいる。哲学史上のビッグネームなので、名前くらいは聞いたことあるよという方多いんじゃないかと思うが、この人は、人生の真実をとらえるためには本当に確実なことから始めなければいけないぞ、と思い立って、一切合切疑った人である。まず何を疑ったかと言うと、感覚を疑った。見えたり聞こえたりする五感である。なんでかと言うと、「夢の中でも同じように見えたり聞こえたりしているわけで、それは現実じゃないんだから、そんな現実じゃないときにも働くものなんて信頼に値しないだろ」というわけ。

じゃあ、たとえ夢の中でも現実でも変わらないものは無いだろうかと考えを進めたとき、この人は数学者でもあったので、数式は大丈夫かなと思った。1+1は、夢の中でも現実でも常に2だろう。しかし、これも疑った。「いや、待て待て、もしかしたら全能の悪霊的なものがいて、本当は、1+1は3であるにも関わらず、おれたちは、1+1が2であるかのように、思い込まされているかもしれないぞ」といった具合である。

何言ってんだ、こいつ? って感じですよ。そもそも、1+1が「本当は」3であるっていうことの意味がもう分からない。でも、疑った。そうやって、疑っていった先に、例の、「我思う、ゆえに我あり」に到達したわけだけれど、ちょっと普通じゃない人である。感覚が疑わしいとか、1+1が2であることが疑わしいとか、そんなこと考えていたら、生活が成立しない。

また、ヒュームという人もいる。この人もデカルトに負けず劣らず疑った人で、この人は因果関係まで疑った。因果関係というのは、原因と結果の関係である。ボールが窓ガラスに当たって、窓ガラスが割れたとする。ボールが窓ガラスに当たることが原因で、窓ガラスが割れたことが結果である。誰でもそう思う。しかし、ヒュームは、「いや、確かに、ボールが窓ガラスに当たったところと、窓ガラスが割れたところは見ることができる。これは認める。でも、ボールがガラスに当たったから窓ガラスが割れたというこのことそれ自体は見ることができない。だから、因果関係なんて認められない」と考えた。

こいつも何言ってんだって、感じである。お前の家の窓ガラスにボールを当てて割ってやろうかってなもんである。ヒュームによると、「われわれはね、ボールが窓ガラスに当たると窓ガラスが割れるところを、何度も見ている。何度も何度も見て習慣になっている。だから、ボールが窓ガラスに当たることが原因で、窓ガラスが割れることが結果であると、習慣から思い見なしてしまっているだけなんだ。しかし、そんな因果関係なんて実は無いのだよ!」ということなのだ。

因果関係疑っていたら、やっぱり普通の生活は成立しない。

これらの例からも分かるとおり、一切合切疑うと生活が成立しなくなる。有用性というのは、普通に生活が成立したあとに出てくるお話だろうから、何もかも疑う哲学はまったく有用ではないということになる。

でも……面白い。

ひょっとしたら、この世界が夢かもしれないとか、1+1が3かもしれないとか、窓ガラスにボールを当てても次は割れないかもしれないとか、そういうことを考えることには、えもいわれぬ楽しさがある。

だから、わたしは、哲学が好きなのだ。

まあ、人に楽しさを与えるという意味では、哲学は大いに役に立つものなのかもしれない。

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