足がつることの幸福と本当の不幸

久しぶりに、足がつった。足がつったことある方は、あの何とも言えない痛みが分かるだろう。今朝の明け方、激痛で目が覚めたところが、足がつっていたという話で、実にすがすがしい目覚めになった。

なんで足がつったのか、と考えてみたところ、昨日、若くもないのにいろいろはしゃぎすぎたのではないかと、とりあえずは、そう結論づけてみた。ドライブに行って、買い物をして、家の中でも階段を昇ったり降りたりを何度も繰り返して、足を酷使しすぎたのだと。すまん、足、いつもお前にばかり割食わせているな……と思っていたのだが、「足、つる、原因」で、検索をかけてみたところ、そんな単純な話ではないかもしれないということが分かった。

というのは、足がつる原因が、体内の不調から来ているかもしれない、というのである。いや、恐ろしい。みなさんも、試みに検索してみるとよい。このじめじめした梅雨の日に、背筋がゾッとして、涼しくなれること請け合いである。

ということで、ちょっと酒をやめてみようかなあ、と思った次第。
体内の不調の原因があるとすれば酒に違いない。

割と体には気を遣っている方で、そこそこ健康にいいことしているのだが、ただ、一点、わたしは、酒を飲むのである。ほとんど、毎日飲む。酒豪と呼ばれる人たちと比べれば大した量ではないと思うのだが、それでもまあまずもって毎日飲んでいるというのがよくない。肝臓にフルでシフトに入ってもらっていることになる。そんなブラックなことをさせて、肝臓にストライキを起こされたら叶わない。現に起こされかけているから、足がつったのではないか。

よし、今日からちょっとお酒やめてみよう!(あるいは、量を減らそう! うん!)

ところで、仮に、今朝の足つりが、体調の不良を警告するためのものだったとしたら、足をつった意味、激痛で目を覚ました意味が、あったということになる。悪いことの中にもいいことがあったわけだ。いやー、よかった、よかった。

もう、逆に、足つってよかった。

いや、でも、それって、本当なんだろうか。

わたしたちは、悪いことがあっても、その中に何かしらいいことを見つけようとしてしまうのではないか。こんなに悪いことがあったのだから、その埋め合わせをしてもらわなければいけない、という感じで。足がつった激痛に見合うように、あるいは見合わなくても多少は補償してもらわなければ、という思いから、「足がつったのは、体の不調を知るためだったんだ!」という具合である。

「人間は不幸には耐えられるが、不幸に意味が無いことには耐えられない」という言葉がある。何の理由も目的もなく不幸が襲いかかってくる、その状態には耐えられないから、たとえば、その不幸を自分がより大きくなるための試練だと解釈する。解釈された不幸は、すでにして不幸ではなくなってしまう。そうすると、不幸なんてものは、そもそも存在しないことになる。「幸不幸は自分次第」という、世の中でよく出回っている考え方の誕生である。ハッピーバースデー!

でも、本当にそうなのか。

幸不幸は自分次第、なるほど、それはそうかもしれない。足がつったくらいの話だったら、まあ、そういう風に考えることもできるだろう。現に、わたしは、今ハッピーな気分だ。体調不良の可能性を知ることができて、足つって、よかった! ラッキー! ってなもんである。

しかし、そんな風に、幸福に転化できないような不幸というものも、この世の中には存在するのではないか。ただ、打ちひしがれるだけしかないような、言わば、本当の不幸が。そこに思いをいたすことができれば、実は、自分のことを不幸だと言える人というのは、本当は幸福であると言うことができることが、分かるのではないかと思う。「わたしはなんて不幸なんだろうか」と言える人は、その不幸を客観視できているということであり、それはいくらでも幸福へと解釈の変更が可能な不幸だからだ。本当の不幸は、その解釈の余地など無いものであって、それとともに生きるしかないようなものなのだろう。

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