謝罪すればいいという覚悟の無さ

あるお笑い芸人が……という出だしで始めようとしたのだけれど、その方が、このnoteにいるらしいということを知ったので、はっきりと、ウーマンラッシュアワーというお笑いコンビの一人、村本さんが、と名前を出しておくことにする。同じnoteで書いているからと言って遠慮するくらいならそもそも書くんじゃねぇよ、と思われたら沽券に関わる……と、まあそんなこと考える人もいないかもしれないけれど、自分が考えたわけだからしょうがないわけで、とにかく、村本氏が、ツイッターで、福島県の浪江町が「なくなる」と発言したらしく、それに対する批判が殺到して、その批判に応える形で謝罪文を出したということである。謝罪文はここnoteにもアップされているそうだ。この一連のできごとそれ自体はアホらしいものなので、ソースについてはリンクは貼らない。記事はすぐに見つかるので、興味ある人は自分で調べてください。

以前に、さるお笑い芸人(……こっちも名前出さないと村本氏に対して不公平なのか? じゃあ、松本人志)が、ご当地アイドルの自殺に関して、「死んだら負け」と言ったことに対して、わたしは、「死んだら負けという単純な価値観」というnoteを書いて、その中で、以下のように書いた。

ちょっと話がそれるのだけれど、お笑い芸人が社会的な事件に関してした発言なんて、それほど目くじらを立てるようなことではないのではないか、とわたしは思う。彼らは人の目を引いてなんぼの世界で生きている。勢い、本業でない時にも、人の目を引くための発言をすることになるんだろう。そんなものは、「またバカが、バカなこと言ってら」で済ませればいい話で、真面目に受け止める人というのは、よほどヒマなのではないかと思う。

今回の村本氏のツイートに対する批判に対しても同様の気持ちがある。そうめくじら立てなさんな。もっと寛容になりなさい。そもそも、一お笑い芸人のツイートで心傷つく繊細な人間が、被災地域に住めるわけない。

まあ、それはそれだ。別にこんなことが言いたくて、今回のnoteを書いたわけじゃない。あらかじめ断っておくが、これから書くことは、村本氏に対する批判じゃない。とはいえ、彼に関する事件を題材にしてものを言うからには、そうも聞こえるのは当たり前の話なので、村本氏に対する個人的な見解も一言だけ述べておけば、おそらくはかなりロマンチックな人なのではないかと思う。ロマンチックさは、話芸には必要な要素かもしれないが、政治や社会を見るには向かない。

で、ここからが、本題なのだが、批判されたときの対応として、謝罪というものがある。間違いを認めて謝るわけだ。この頃、流行っているのか、この前、大臣まで謝罪した。謝罪することが悪いわけじゃない。批判されたときに、「わたしは悪くない!」と頑張る人の方がエラいなんていうわけでは全然無いが、どうもこの、「謝罪すればいい」という空気には、なじめない。めまいがする。謝罪するくらいなら言葉を吐くなと言いたい。言葉にするなら覚悟を決めろ。覚悟が無いから、そこから発せられる言葉が安くなり、安い言葉だから批判を受ける。批判を受ければ謝罪をして、それで済まそうとする精神であれば、ますますそこからあらわれる言葉は安くなる。言葉のデフレスパイラル。しかし、本当に底に落ちていくのは言葉じゃない。それを使う人間の方だ。

じゃあ、間違えたことを言ったときはどうすればいいんですか? そりゃ、謝罪するしかない。さっきも言ったが、わたしは、何が何でも謝罪なんてするなと言っているわけではない。間違ったことを言ったら謝る、というのは当たり前の話である。だから、間違ったことを言ったときも謝るなと言っているわけではなくて、間違ったことを言ったら謝ればいいという前提のもとでものを言うな、ということである。つまりは、ものを言う前に考えろということだ。

SNSの隆盛で、流星群のように言葉が落ちてくるが、見た目は綺麗でも、中身があるものはほとんど無い。当たり前だ。中身のある言葉は、心ある人の胸に秘められているからだ。秘すれば花。でもそれは、秘め隠すから花になるわけではなく、秘め隠すしかないから花なのである。語るな、考えろ。語るなら、まず自分自身と語れ。

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