死んだら負けという単純な価値観

愛媛のご当地アイドルが自殺するという事件があった。

それに対して、さるお笑い芸人が、情報番組において、「死んだら負け」と発言したことが話題になっているようだ。

発言には文脈や意図というものがあって、それらから切り離して、その発言だけをクローズアップしてしまうと、誤解が起こる。メディアなんかは、こういう誤解を意識的に生むことで話題を作ろうとしている節があるのだけれど、まあ、それはそれ、別にわたしは彼の発言の当否を吟味したいわけではない。

ちょっと話がそれるのだけれど、お笑い芸人が社会的な事件に関してした発言なんて、それほど目くじらを立てるようなことではないのではないか、とわたしは思う。彼らは人の目を引いてなんぼの世界で生きている。勢い、本業でない時にも、人の目を引くための発言をすることになるんだろう。そんなものは、「またバカが、バカなこと言ってら」で済ませればいい話で、真面目に受け止める人というのは、よほどヒマなのではないかと思う。

わたしはそれほどヒマではないのだけれど、彼の言う、「死んだら負け」という言葉が、どうも引っかかった。「死んだら負け」というのは、裏返し、「生きたら勝ち」ということだろう。人生を勝ち負けで割り切るこの考え方は、世相を反映したものだけれど、そもそも人生において、「勝ち」とか「負け」とかいうのは、何を基準にしてのことなのだろうか。基準がなければ、勝敗を決することなどできない道理である。

その基準として、「社会的成功」が挙がることは想像に難くない。みんな、こぞって、それを求めているわけだけれど、社会的成功を求めることは、一体何を求めることなのか、自省している人は少ないのではないか。そのお笑い芸人のように社会的成功が手に入ったとして、人生を勝ち負けで見るという価値観を抱えて一生過ごして、そして死んで、それで本当に満足なのだろうか。

「勝ち組」として死ぬのだから満足だ、と言う人もいるかもしれないが、気をつけてもらいたいのはここで、たとえ「勝ち組」になったとしても、人は死ぬのである。いくら社会的に成功したとしても、人は必ず死ぬ。「死んだら負け」と言っているその人も、いずれ必ず死ぬのである。だとしたら、勝ち組も最後には負けるわけであって、勝ち続けるわけにはいかない。

そうは言っても、そのあたりはやはり、その人の心の問題だから、勝ち組として生きてきて死ぬその瞬間に、満ち足りて死んで行ければそれはそれでいいのかもしれないけれど、果たしてそううまくいくだろうか。人は一瞬で死ぬわけではない。年老いて、病気がちになり、段々と体が利かなくなって、徐々に死ぬのである。そういう時に、勝ち負けなどという価値観が通用するのだろうか。

まさに老齢で病がちになったときに、「勝ち負け」を捨てて、慌てて、仏教あたりに目覚めても遅いのである。もうそれまでの人生を取り戻すことはできない。そうなる前に、人生の勝ち負けについて、いや、人生を勝ち負けで測れるのかということについて、あらかじめ考えておくべきだろう。

読んでくださってありがとう。もしもこの記事に何かしら感じることがあったら、それをご自分でさらに突きつめてみてください。きっと新しい世界が開けるはずです。いただいたサポートはありがたく頂戴します。