お嬢様とヒツジとの哲学的口論「緊急時には緊急時のそいつが顔を出すだけ」

〈登場人物〉
マイ……中学1年生の女の子。色んなことに腹を立てるお年頃。
ヒツジ……人語を解するヌイグルミ。舌鋒鋭め。
〈時〉
2020年4月中旬

マイ「はあ……」
ヒツジ「どうした、また太ったのか?」
マイ「『また』って何よ! 別に太ってないし! 大体、そんなことで落ち込まない!」
ヒツジ「じゃあ、なんでため息なんてついているんだよ」
マイ「がっかりしてるのよ」
ヒツジ「なにに?」
マイ「わたし、大好きだった日本人のyoutuberがいるんだけど、その人、この前まで外国に住んでいたのね。その住んでいるところが、このコロナの騒ぎで危なくなってきたっていうことで、それよりマシだっていうことでしょ、近頃、日本に帰ってきたのよ。世界中が『stay home』を合い言葉に頑張っているときにだよ、そんな危険な国から帰ってきて、母国の人を危険にさらすなんて……それで、もうなんかさあ……」
ヒツジ「なるほどな。しかし、今さら、一人くらい、そんなヤツが増えたところで、何も変わりはしないだろ」
マイ「一人くらいっていうけど、どんなことだって、『一人くらい』の積み重ねなんじゃないの? 一人くらいを一万回繰り返したら、一万人になるんだよ。それに、その人って、チャンネル登録者数も多くて、インフルエンサーなんだから、そういう人が外出して帰国することを正当化すると、他の人もそれに従っちゃうかもしれないじゃんか」
ヒツジ「一人くらいを一万回繰り返したら、一万人になるというのはそれはその通りだが、その最初の一人が、そいつだというわけではないだろう。最初の一人は別のやつで、そのyoutuberは、5726人目くらいかもしれない。だとしたら、そいつばかりを取り立てて責めるのは間違っている。それに、インフルエンサーだか何だか知らないが、そいつが何かしたからと言って、他のヤツがそれに従うだろうなんていうのは、人間をバカにした考え方じゃないか
マイ「わたしはさ……なんていうか、その人にはカッコよくあってほしかったの」
ヒツジ「幻滅したってことか?」
マイ「まあ、そうかな……」
ヒツジ「勝手に外国に行って、そこが危なくなったから帰国して、母国の人間に危害を加えるかもしれないことが、カッコ悪いってことだな?」
マイ「そうだよ。そんなの、絶対カッコよくないでしょ!」
ヒツジ「カッコはよくないかもしれないが、しかし、人間は時にカッコよくないこともするもんだ。お前なんてしょっちゅうだろ」
マイ「いま、わたしの話なんてしてないでしょ!」
ヒツジ「お前も、そのyoutuberも同じ人間であることに変わりはないだろ」
マイ「それだって、やっぱり今回のことは、単にカッコ悪いことじゃなくて、本当にカッコ悪いことだと思う」
ヒツジ「お前がよく言う、『卑怯』っていうやつだな」
マイ「…………うん」
ヒツジ「それが受け入れられない?」
マイ「……わたし、卑怯なことが嫌いだもん」
ヒツジ「なるほどな」
マイ「人ってさ、緊急の時にその本性が見えるっていうじゃん。そういう卑怯なところが、あの人の本性だったんだなあって思うとさ……」
ヒツジ「人は緊急時にその本性をあらわにするということだがな、あれは、半分は当たりで、半分は間違っている」
マイ「どういうことよ?」
ヒツジ「緊急時には、緊急時のそいつが顔を出すっていうだけだ。それは、そいつの本性かもしれないが、本性の全部じゃない。あくまで、一部だ。そのyoutuberは、これまで、素晴らしい動画を上げ続けていたんだろう?」
マイ「まあ、それはそうだけど……」
ヒツジ平時は、素晴らしい動画を上げられる素晴らしい人間で、緊急時はそれができなくなる。どちらも、そいつの本性なんだ。緊急時に何か間違いをしたからと言って、それでもって平時の貢献がチャラになるわけじゃない」
マイ「…………あんたには分からないわよ。わたしの気持ちは」
ヒツジ「お前の気持ちなんて、おおかたは分からないが、今回の件は、単純な心の動きだろう。カッコいいと思っていた人が、カッコ悪いことをした。これまで、応援してきたのに裏切られた。せっかく応援していたのに、無駄だった。がっかり。そんなところだろ」
マイ「はあ……じゃあ、なに? わたしのこのがっかりする気持ちは正当なものじゃないってこと?」
ヒツジ「気持ちに正当も不当もない。そう感じたということは、お前はそう感じたんだ。ただ、その感じを抱くのはどうしてなのかということを、もっと突き詰めて考えてみれば、必ず、もっと広いところに到達できるはずだ」
マイ「……やってみるよ。この気持ちが落ち着いたらね……はあ……」

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