人生哲学と哲学の関係

みなさん、人生哲学を持っているだろうか?

人生かく生きるべしという教訓的なアレである。

この「人生かく生きるべし」という教訓的なものは哲学の名に値しないのではないか、という主張をちらほら耳にする。哲学っていうのは、この世界に関しての普遍的な真理を求めるものであって、個人の人生にのみ当てはまる法則なんていうのは哲学じゃないだろう、そういうのは、人生論というのであって、哲学ではないのだ、と。

確かに、それはその通りかもしれない。

しかし、それではどうして、この人生哲学、人生論というものがまかり通っているのか。

人生哲学に関するわたしの興味はそこにあり、そうして、哲学という思考が現に存在するものを認めるところから始まるとしたら、そこをこそ考えるべきなのではないかと、わたしは思う。

さあ、では、どうして、人生哲学というものが存在するのか。

これは難しい問いではない。各人が自分の人生しか生きたことがないことが原因である。自分の人生しか生きたことがないから、人生の中で起こることについては、自分の体験からしか考えようが無い。だから、人生哲学というものが現われるし、現われて当然ということになる。

なので、人生哲学なんか持つのをやめて、哲学をやろうよ、と言っても、これはなかなか響かない。響かないのが当たり前。普遍的思考、なんて言ったって、その普遍を認識するのは、個人という特殊にしか過ぎないのだから。

そうして、「普遍的なことなんて知らないよ、わたしはわたしの人生について知りたいだけだ」という姿勢の方が、実は、よっぽど哲学的なのではないかと思う。みなさん、人生哲学を持ちましょう。しかし、それはあなた一人にしか通用しないことなので、ゆめゆめ他人に語ることのなきよう。

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