ロマンスあふれる福島

わたしは福島に住んでいるが、福島県がどのような目で見られているのかということは、現に福島にいるとどうもよく分からないところがある。8年前の震災が起こる前は、福島県などと言っても、まあ、東北や関東住まいの方は違うかもしれないが、少なくとも中部地方以西の方にとっては、どのあたりにあるのかさえよく分からない県だったことだろう。今はかなりの程度、福島県の位置は知られているのではないだろうか。例の震災が起こって、それだけではなく、原発事故のおかげで、知名度は一気に上がった。

現在、福島に住んでいない人は、福島のことをどんな風に見ているのだろう。もうかなり復興が進んだ地域と見ているのか、チェルノブイリ同様の汚染地域として見ているのか。大多数の人は、以前は興味あったけれど、もうあんまり興味関心がなくなっているのではないか。8年も前のことであるので、被災したりボランティアに行ったりした震災関係者以外は、そうそう興味を持ってはいないことだろう。よくは分からないけれど、何となく、まだあそこの農産物は買わない方がいいかなあ、くらいの気持ちを抱いている、とそんなところだろうか。まあ、それが普通だろう。

震災関係者でもないのに、「いざ、福島へ!」と声高に叫ぶ人がいるようだけれど、どうも、わたしはこういう人にはイマイチ信が置けない。何か勘違いしているのではなかろうかという気がする。勘違いというか、ロマンティックな思いを抱いているというか。福島には、学ぶべき、教訓にすべき、同情すべき、感動すべき、畏怖すべき何かがきっとある、という思いを持っているのではないか。……うーん、まあ、先に望みを持ってそこに行けば、大抵は何か見つかるものである。しかし、それは自分が望んだものを見ているだけであって、現にあるものを見ているわけではない。この違いは、本当に注意すべきことであると思う。自分が望んでいるものを見ているだけなのか、あるいは本当に現にあるものを見ているのか。

福島について、復興が進んでいるだろうと思って行けば進んでいるように見えるし、放射能汚染が進んでいるだろうと思って行けばそういう風にも見える。真実はどこにあるのか。あるいは、どこかに真実があるとして、それは、現にそこに暮らしている人にどのような意味があるのか、現にそこに暮らしていない人にとってはどうか。

震災関係者という点に関して言えば、もちろん、日本に住む、あるいは世界に住む全ての人が、関係者なのだと言えば、言えないことはない。チェルノブイリがみんなの問題であるように、フクシマもみんなの問題なのだと。確かに、それはその通りである。しかし、ある問題を問題だと考えることと、ある問題を生きることは、また別のことである。

わたしは、ここで、現に福島に住んでいない人は、現に福島に住んでいる人の気持ちは分からない、などということを言いたいわけではない。そうではなくて、分かるかもしれないけれど、そうそう分かった気になってもしょうがないよということを言いたいのである。「いや、分かった気になんてなっていない、わたしは福島に行って現地に住む人たちにインタビューしたんだ」と言う人もいるかもしれないが、たとえば、わたしの場合、普段、原発事故のことについてあんまり考えてもいないけれど、もしも、原発事故についてインタビューされたら、汚染地域に住む苦境を訴え、その原因を作り出した国と東電の悪口を散々に言うだろう。そういうのは、ある程度は真実を含むだろうが、ある程度はやはりパフォーマンスなのである。現地に行って現地の人に話を聞けば、そこに住む人の気持ちがすっかりと分かるなどという考え方は、幼稚に過ぎる。

福島に来る際に、福島について何らの先入観やイメージを持たずに来るということは、もう無理だろう。福島においでの際は、自分が先入観やイメージを持っている可能性があるということを自覚して来るのがいいと思う。もちろん、自らのロマンティックな思いに浸りたい、ロマンスを求めて福島に来たいというなら話は別であるが。

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