差別をなくすためには言葉をなくす必要がある

生活していく中で、わたしたちは、日常的に差別を行っている。体の不自由な人、年老いた人、未熟な人、性的マイノリティ、外国人などを、自分たちとは違っていると認識して、取り扱いに差を設けている。

どうして差別を行うかというと、それは、違っていると認識するからなのだが、では、どうして違っていると認識するのかと言えば、これはなかなか興味深い問題である。どうして、わたしたちは、「わたしたち」と「わたしたちではない人たち」という分け方をするのか。

しかし、話は単純で、それは、「わたしたち」という言葉があるからだ。これに尽きる。「健常者」という言葉があるから、健常者ではない「障がい者」が生まれ、「マジョリティ」という言葉があるからマジョリティではない「マイノリティ」という言葉が生まれる。言葉によって、わたしたちは、わたしたちとそれ以外の人を分けて、「それ以外の人」は違った存在として認識することになる。

違った存在として認識する区別が差別に変わるのはたやすい。

たとえば、我が子と他人の子は、違った存在である。我が子は家族であるのに対して、他人の子は家族ではない。これは単なる区別に過ぎない。しかし、もしも二人が一緒に川で溺れていたとして、一人しか助けられない状況だったとしたら、誰もみな何の躊躇もなく我が子を助けることだろう。それは、他人の子の方が、我が子よりも価値が低いと見なしているからである。これが差別である。

区別が差別につながる。

差別をなくすためには、区別をなくす必要がある。そのためには、区別を作る言葉それ自体をなくす必要がある。「障害者」を「障がい者」と表記したところで、障がいを持っている人への差別はなくならない。「障がい者」という言葉自体をなくす必要があるのだ。

わたしたちは、もっと言葉に敏感になる必要がある。
差別は心の問題ではなく、言葉の問題なのである。
言葉をなくす。
しかし、これは至難の業だろう。

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