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私はワクチンを打たない

私は現役の高校1年生です。新型コロナウイルスの影響をまさに、今も受け続けている世代です。

昨今のコロナ禍について思っていることを、赤裸々に述べたいと思います。社会の方々が思っている以上に、我々は我慢を強いられ、そして従順に我慢を重ねてきたのです。

先輩方がかわいそう

私も新型コロナの影響を受けているとはいえ、一番かわいそうなのは私の二学年上の先輩方です。

先輩方は、修学旅行は3回延期され、行き先の変更が告げられ、ついには中止の憂き目に合いました。文化祭は大幅な縮小を迫られました。期待していた「青春」などなかった。感染対策の名のもとで、ひたすらに制限、制限、制限のオンパレードです。人生に一度、たった3年間しかない高校生時代は、コロナによって奪われてしまいました。

……奪ったのは本当にコロナだったのでしょうか?

大人が青春を奪った

私たち高校生の率直な感覚をご批判を恐れずに言葉にすると、「私たちの青春は大人に奪われた」です。

青春を奪ったのは、あなたたち、大人です。

将来同窓会で集まっても、文化祭や体育祭でバカ騒ぎしたと話すことはないでしょう。なぜだか分かりますか。バカ騒ぎが許されないからです。
少しでもマスクを外して声を出そうとすれば注意される。
私のクラスメイトの中にも、マスクを外した顔を知らない人がいます。

恐ろしいことだとは思いませんか。学校という閉鎖的な環境で、同じ教室の中で、数十センチ先で授業を受けている仲間の素顔すら知らない。
哀しいことだとは思いませんか。我々は奪われた青春を肯定することも、さりとて否定することもできずに、高校生活を終えます。

卒業式の衝撃

先日、その二学年上の先輩方の卒業式に(幸運なことに)出席できましたが、和気あいあいとした温かい雰囲気といったものではなく、本当に儀式めいた「卒業証書授与式」に過ぎませんでした。

卒業生の方の答辞を聞いていて、その痛ましいほどのひたむきさに胸が締め付けられるようにすら感じました。

僕たちの青春は輝ききれずに奪われ、終わってしまったのでしょうか。
決してそんなことはありません。僕たちは置かれた場所で諦めるでも甘んじるでもなく、少しでも綺麗に咲こうとしてきました。そして、僕たちにしか咲かせられない綺麗な花を咲かせました。

これを言わせたのは大人です。あなたです。社会そのものです。

奪われたという感覚がないわけがありません。「普通」だったら出来ていたはずのことが、いとも簡単に崩れ去ったのです。

そのような強い制限を受ける中で、その逆境に立ち向かって綺麗な花を咲かせようとする高校生はたしかに健気でひたむきで美しいでしょう。私たちは誇ってもいい。

しかし、本来制限がなければそれに越したことはないことは、あまりに明白ではありませんか?

大人はわかってくれない

https://twitter.com/zov74/status/1491696815863103488より引用)

大人にこう言われると、若者は諦めてしまいます。

あえて傲慢とわかっていながら言います。
大人の苦しみを私たちに押し付けないでください。

『「はぁそうですか」以外に何を言えというのだ。』
たしかにそうですね。あなた方が若い頃にたいへんな苦労をなさったことは察されるし、決してそれは軽視されていい経験でないのもわかります。
でもそれは私たちのセリフでもあることをお忘れなく。
あなた方が若い頃に苦労されたとして、「はぁそうですか」以外に何を言えというのだ。

…私たちとしてもそう言う他はなくなってしまうのです。あまりに不毛ではありませんか。

先生もわかってくれない

先生に、行事のことについて直談判しに言ったことがあります。

私「先生、行事をこれ以上ストップするのをやめてください。」
先生A「教育委員会からの要請だからな。仕方ないんだ…。」
先生B「それに、もし何かがあったら責任を取るのは先生たちだろう? 分かってくれよ。高校生なんだから。」
先生C「公的な要請に強情に反するのは学校教育というものの形として違うと思うんだ。」

そんなことを言われたら何も言えなくなってしまうではないですか。
大人は卑怯です。

ええ、分かっています。このnoteはあくまできっと私の子供じみた幼稚な怒りに過ぎないのでしょう。

コロナのせいで職を失ってしまったり、亡くなってしまった方々もいます。そのような方々に比べれば、我々高校生の抱える悩みなんぞちっぽけすぎるものなのでしょう。
ええ、分かっています。

でも一つだけ言わせてください。

なぜ私たちがそこまで聞き分けがよくなければならないのですか?
私たちは何も決めさせてもらえないのに。

だから私はワクチンを打たない。

私は一回目と二回目のワクチンを打ちました。副反応もそこそこ熱が出ました。そうしたらなんですか。今度は三回目ですか?

私は三回目のワクチンは打ちません。

だって、打たなくても、コロナにかかっても死なないじゃないですか。まだ15ですよ?(高校1年生ですが早生まれなのでまだ15なのです笑)

そもそも一回目と二回目のワクチンだってあまり打ちたくなかった。
学校外の人たちに会う機会もあるから、人付き合いということもあって、打ったのです。

三回目のワクチンを打たないせいで他の人に感染を広げてしまうリスクを考えれば、これは幼稚で愚かな決断なのかもしれません。

しかし、これが私にできるささやかすぎる反抗なのです。

感染対策の名目のもとで、何もかもを中止にするのはやめてくれ。
ずっと行こうと思っていた美術館の展覧会が昨年中止になったこと、未だに根に持っています。美術館なんて誰も喋らないじゃないですか。誰もどこも触らないじゃないですか。入場制限すればそれで充分コロナが防げるとはだれも思わなかったのですか?

若者の思いをあまりに的確に紹介してくださっているnoteがあったのでご紹介します。

有料記事ですが、一部引用します。

思うに若者側からすれば、ワクチンを打つことは「社会貢献」である以上に、大人がつくった社会とのある種の「契約とりひき」のようなものだっただろう。
ようするに、ワクチンを打てば個人的な生活を正常化させてもかまわないという社会的譲歩を得るための「落としどころ」だったのである。
もちろん大人の側からすれば「そんな約束はした覚えはない」といってしまえばそれまでだ。しかし当の若者たちからすれば「頼むからこれで手打ちにしてくれ」という最後の献身だったのである。

https://note.com/terrakei07/n/n3070813d0c2eより引用。強調は筆者。

ワクチンは打ちません。

馬鹿な決断だ、責任感が足りない、とか。
まだ選挙権すらないんだ。責任感がなんなんだ。

嗤いたければ嗤えばいいさ。
私があなた方を恨むだけです。

お願いです。
もう「不要不急」はやめてください。


(2/11 23時ごろ追記)

たくさん閲覧していただいて本当にありがとうございます。
自分でもこれほどのアクセス・スキをいただけるとは思っていませんでした。

また、コメントもありがとうございます。
noteの機能としてコメントへの返信機能がないようですので、直接お礼を伝えることができないのも歯がゆいのですが、ここでお礼に代えさせてください。本当にありがとうございます。

「若者も重症化する可能性がある、長引く後遺症に苦しんでいる人もいる、だからどうかワクチンを打って欲しい」というようなコメントをいただきました。

このあたりについて考えが及んでいなかったのは完全に私の不徳の致すところです。ご指摘本当にありがとうございます。
家族とも話し合って、ワクチン接種についてもう一度考えてみたいと思います。

ですが、私の主張は変わりません。

どうか我々の青春から目を背けないでほしいのです。

ワクチンを打ったら、「普段どおり」過ごせる、そんな社会になることを祈ってやみません。

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