見出し画像

人生に迷った時は、周りの人をみる

さっきまで使っていたSLACKのプロジェクトをみると、ざっと31くらいのプロジェクトが同時進行状態で、今はこれでも比較的閑散期である。なので自発的にここにさらにプロジェクトを作っていったり、望まれない企画をぶちあげてさらにプロジェクトは増えていく。

これは忙しい自慢をしたいのではなく、まったくもって今まで忙しいと感じたことがない。比較的ショートスリーパーなのが助かってるのかもしれないが、死ぬほど寝る時もあるし、「こんな状況最悪や」と思ったことは一度もない。むしろやりたい仕事がまだまだあって、それを少しでも近づけてくれるような依頼をいただいて感謝感謝の日々である。

こういう状況で必要なことは、鬼のこだわりを即断即決するスピード勝負と必然的に忘れないための即レスと、何より応援してくれる頼れる仲間の存在である。結局ここまで仕事が増えていくと一人でなんか到底できるはずがないし、実績に伴って仕事の規模も大きくなる&はじめてやることも多くなるので、そんな時に相談できたり、手を組めたり、助け合える仲間の存在はとても大きくありがたい。

自分一人サイズの幸せ

世間で絶賛流行中の「好きなことを仕事にする」というテーマは間違えていないし、とてもいいと思うのだけれど、みんな結局自分のことだけなんだよなぁ〜。それって自分一人の幸せの話だよね、その方向でいったら広がらないよねきっと、と思ってる。そしておそらく「広げる」つもりはないんだろうと思っている。

僕は独立してから今まで一度も「好きなことを仕事にする」と思ったことがない。こんな格言みたいなの掲げたことはない。「好きなことを仕事にする」を掲げた時点で、それは好きでもないことを仕事にしてるのか、何か特別な人になりたいのかと同義だ。

好きなことをしている人間は、好きなことに没頭していて、それが好きかどうかすらわからない状態になってるのが、好きで面白いということ。周りの人を笑わせたいなとか、喜んでもらいたいなとか、困った人をなんか助けたいなとか、そんなところに自分のもってることで役に立てればいいなと夢中にやってきた結果、人が喜んでくれることが自分にとっての一番の報酬となった。人を心底喜ばせるためには、その人の考えている以上の価値を提示しないといけない。そこの勝負に挑み続けた。人は誰かに喜ばれることをするためにきっと生まれている。

喜んでもらううちに、この得意な仕事が「好きになっていった」

好きな仕事をしつづけるということ

どっちが良いわけでも、綺麗ごとでもない。仕事はきっと好きなことしかできない。仕事というものにしたときに好きでいつづけるということは、そうそう簡単なことではない。何事も一瞬は楽しい。けれど継続することは難しい。一瞬の花火はラッキーパンチで打ち上がる。一回の大口仕事の経験、一回の高額の販売、一回のいい出会いそんなものは生きてればきっとある。誰にでもある。けれど、たった一回で終わらせるならそれは、1年でならすとたいしたことはないし、1生でならすともっとたいしたことはない。

おそらくみんな隣の芝は青く見えている。あなたの憧れるあの人もあの人もあの人も、あんな風になれたらいいな、あんな仕事の仕方最高だな、どうやったらなれるのだろうのその答えは「好きだからこそ、面白くしたいからこそ、みんな血のにじむような、常人には理解できないくらいの仕事のやり方をしている」もしくは、「誰もまねできないくらいの人付きあいをしている」につきる。

食いつぶすベーシックインカム

僕がもし、たった一人で喜ばせたい人もいない場合、何をやるだろうと考えたら、きっと一生本を読んでるか、映画をみてるか、馬を見てるか、寝てるか、朝から西成で酒を飲んでるか、そんなところだ。非生産の極みだ。ベーシックインカムというものが確立したとして、そのインカムをただ単純に惰性で貪るだけの人間になるだろう。これはその昔仕送りというインカムをもらいながらニートを1年半やった経験から先は見えている(笑)この時の暮らしが幸せなのかと言ったら地獄でしかなかったw

お金は稼ぎ方がことさら大事なのではない。稼いで何をするのか、何に使うのか、その出口が大切だ。与えられることが重要なのではない、誰に与えたらそのお金は生きたお金になるのか、その人材の見極めが重要だ。結局のところ人はいろんな経験をしながらこの「お金の使い方」と「人の見極め方」を一生かかって学んでいるのだと思う。その先に「それ続け方」があるのだと思う。

おかげさまで僕はお金の使い方は、イマイチだけれど、人に関してはとても恵まれている。今は嫌いな人間がまったくいなくなってしまった。嫌いな人たちは自然と自分から離れてくれるので、結果周りには好きな人しかいなくなった。人が鏡だとするのであれば、僕のやり方もそう悪いものでもないのだろう。

人生のナビの行方

自分の判断材料は、いつも人だ。それは迎合するという意味ではない、法人も人なら国も人だ。その集合体でできている。やっていることが面白ければ面白い人が集まるはずだし、客観的に周りの人をみるだけで、自分のやってることが目的地までのGPSでいうと、ちゃんと道順どおりに走っているのか、逆走してるのか判断できる。自分の力量以上の人たちが年齢を問わずに集ってくれて、それもリスペクトしてくれたり、教師もやってくれながらそこにいてくれるとしたら、きっと人生はいい線いってるのだろう。

僕は48歳になったので何が自分にとっての報酬なのかよくわかっている。それを甘えさせたり、慣れさせないために、今まで意識が向かなかったことを新しくやってみたり、まったく興味のなかったことに目を向けてみたりもしている。後12年くらいでどこまでいけるのか。カウントダウンのはじまったアラフィフの戯言だけれど案外嘘も言ってないので、毎日書いていることが何かひとつでも参考になってくれるといいなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?