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向き合いたくない記憶~ホロコースト記念博物館で感じたこと|佐藤由美子

このコラムでは、拙著『戦争の歌がきこえる』(柏書房)に書ききれなかったトピックを紹介します。本書は第二次世界大戦終結から75周年を記念し、私がアメリカのホスピスで音楽療法士として働いている際に出会った、退役軍人やその家族とのストーリーをまとめた一冊です。

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ホロコースト記念博物館内に展示されているユダヤ人たちの写真

2018年の秋、私はワシントンD.C.のナショナル・モール(国立公園)にある「ホロコースト記念博物館」(United States Holocaust Memorial Museum)に足を運んだ。建物の中は強制収容所を想起させるレンガ造りになっており、エレベーターには血の跡のように見えるしみがあった。この建物は、そこにいるだけで犠牲者が味わった恐怖や悲しみに共感できるようデザインされていると思った。

ヒトラーの台頭から始まり、強制収容所の悲劇、ヨーロッパ各地で起こったレジスタンス運動など、幅広い内容が展示されていた。ユダヤ人が集められて射殺される映像や強制収容所の解放後に撮影された映像など、生々しい展示物であふれて、思わず目を背けたくなるような場面が多々あった。

中でも印象深かった展示物のひとつが、ユダヤ人を強制収容所に送った “Boxcar(ボックスカー)”または “Holocaust trains(ホロコースト列車) “と呼ばれる貨物列車だ。中に入ると真っ暗で、鉄格子の小さな扉から微かに光がもれていた。その中にひとりでいると、不思議なほどの静けさを感じるとともに、これまで出会ったホロコースト生存者たちのことが思いだされた。

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ボックスカー(ホロコースト列車)

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ボックスカーの中

そのひとりが、『戦争の歌がきこえる』で紹介したマリーという女性だ(第6章)。アメリカのホスピスで音楽療法士として働き始めて数年目に出会った患者さんだった。彼女の恐怖に満ちた目を、私は今でも忘れることができない。「音楽療法で『癒されない』人もいるのですか?」というような質問を受けるたびに、私は彼女のことを思い出す。人間の心の回復は簡単なことではないし、戦争のトラウマの深さは私たちの想像を越える。ホロコーストを生き延びた彼女の最期は、私がこれまで見てきた中でもっとも悲惨な最期のひとつだった。彼女もこのようなボックスカーに乗せられ、強制収容所に送られたのだろう...…。

博物館はそこまで大きくないが、展示物が多く内容も深いので、一日では到底全部を観ることはできなかった。しかもその日の夜、恐ろしい悪夢を見たので、正直もうここには来たくないと思った。でも、一箇所だけ詳しく観ておきたいと思ったコーナーがあった。"Americans and the Holocaust(アメリカ人とホロコースト)"という展示だ。

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館内に刻まれている犠牲者たちの名前

2019年の始め、私は再び博物館を訪れた。前回と同じく館内は大変な人混みで、歩くこともままならなかった。この博物館はワシントンD.C.にある多くの博物館の中でも特に有名で、訪問者が多い。アメリカで博物館や美術館に行くと、子どもが走り回っていたり、大声で話をしている大人がいて驚くことがあるのだが、ここにはおしゃべりしている人がひとりもいない。みんな真剣な表情で展示物を見ていて、その静けさには何か恐ろしいものを感じた。たまに聞こえる音といえば、テレビ画面から流れてくる爆発音や解説のナレーションだけだ。

私は人ごみをかきわけ、「アメリカ人とホロコースト」のコーナーへ向かった。そこは、ナチズムや戦争、ジェノサイドに対し、アメリカが国家としてどういう対応をしてきたかをテーマに、その背景にある国民感情を明らかにすることを目的とした展示だった。

特に興味深かったのは、当時行われた様々な世論調査の結果だ。例えば、1938年11月の「クリスタル・ナハト(水晶の夜)」(ドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動で、この事件後ユダヤ人の立場が悪化し、のちに起こるホロコーストの前触れとなった)の数週間後に行われた調査では、94%のアメリカ人がナチス・ドイツによるユダヤ人の扱いを「Disapprove(非難する)」と答えた。しかし同時に、「ドイツからより多くのユダヤ人の亡命者がアメリカに移民することを許可するべきか」という問いに関しては、71%が「No」と答えたのである。たいていのアメリカ人がナチスの行いを非難していたが、ドイツ国内のユダヤ人に手を差し伸べることには躊躇していたことがわかる。

当時、ルーズベルト大統領の妻、エレノア・ルーズベルトは、難民の子どもたちの移民許可を認める法案を指示したが、結局は実現しなかったらしい。アメリカ国民も世界大恐慌の影響で苦しい思いをしていたという背景もあったのだろう。でも私が驚いたのは、この博物館ではそのような言い訳をせず、むしろアメリカ国内にも存在したユダヤ人に対する「差別意識」を明らかにし、さらには実際に「救えたかもしれない」子どもたちの写真を展示していたことだ。

例えば、1939年5月にドイツから900人ほどのユダヤ人難民を乗せた「MS St. Louis」という船が到着したが、入国を許されず、ヨーロッパに送り返されたそうだ。多くの乗客はその後ナチスに殺されたという。博物館には「MS St. Louis」から不安そうな顔でこちらを見つめている子どもたちの写真が展示されていた。

アメリカ人は自国がナチスを倒したことに誇りを持っているし、第二次世界大戦はその視点から語られることが多い。でも、ここではそのストーリーを再生産するのではなく、人々が思い出したくない、いわゆる「忘れている(forgetting)」事柄に言及することで、訪問者に新しい角度から過去を見つめさせているのだと感じた。

犠牲者を追悼し、二度とこのようなことが繰り返されないよう歴史から学ぶためには、真実と向き合う必要がある。忘れられてきた記憶を発掘し、居心地の悪い過去にも目を向ける必要があるのだと思う。

館内にはさまざまな言葉が掲げられていたが、そのひとつがホロコースト生存者でノーベル平和賞受賞者のエリ・ヴィーゼルの言葉だ。

“For the dead and the living, we must bear witness.”(死者と生者のために、私たちは証人にならなければならない)

つまり、犠牲者だけではなく、未来の世代のためにも、私たちは記憶や教訓を伝えていかなければいけない。

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館内に掲げられたエリ・ヴィーゼルの言葉

【補足】本稿で示したデータ等については、ホロコースト記念博物館の公式ホームページを参照。掲載した写真はすべて著者撮影。

佐藤由美子(Yumiko Sato)
ホスピス緩和ケアの音楽療法を専門とする米国認定音楽療法士。バージニア州立ラッドフォード大学大学院音楽科を卒業後、オハイオ州のホスピスで10年間音楽療法を実践。2013 年に帰国し、国内の緩和ケア病棟や在宅医療の現場で音楽療法を実践。その様子は、テレビ朝日「テレメンタリー」や朝日新聞「ひと欄」で報道される。2017年にふたたび渡米し、現地で執筆活動などを行なう。著書に『ラスト・ソング――人生の最期に聴く音楽』、『死に逝く人は何を想うのか――遺される家族にできること』(ともにポプラ社)がある。
Twitter: @YumikoSatoMTBC
HP: https://yumikosato.com