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モフっとしている+あえぎ声の輪郭は|怪談未満|三好愛

★本連載の書籍化が決定しました(2022年6月24日付記)

モフっとしている

 引っ越した先の、ロフトがついたその部屋は、隣が墓地であることがいささか気にかかりましたが、谷中銀座のすぐそばで、私はこれからはじまる谷根千ライフに胸をときめかせていました。大学一年生のときはキャンパスが茨城にあったので、都内の実家から通うのは難しく、一人暮らしをしていましたが、二年生以降は上野にあるキャンパスだったので、実家からずっと通っており、大学院進学を機に、久しぶりにはじめた一人暮らしでした。

 引っ越しを終え、新居で迎える最初の夜のことです。これからはこの台所で自分だけの夕飯を、自分の手でつくって食べるんだ、とわくわくしながら、とりあえず台所を整理しよう、と私はしゃがみこみました。その台所にはなぜか、ビジネスホテルにあるような小さな冷蔵庫が、鍋や包丁をいれる棚の横に備え付けられていました。ふと見ると、その冷蔵庫と収納棚との隙間になにか、なにかがいます。狭い暗闇の中に、モフっとした、明らかに有機的な姿があります。ぞっと鳥肌が立ちました。自分だけのものだと思っていた空間に、他の生き物の気配があるんです。手を差し込めばギリギリ届くその位置に、眠っているのか死んでいるのかわからない、何者かが存在していました。

 どうしよう、と思いましたが、動く気配はないですし、こちらに危害を加えそうな様子もありません。鳴き声もしないな、死体、なのかな、と思い、おそるおそる暗闇に手をのばします。指先に、予想とは違う感触があって、思わず声をあげました。血が通っていない冷たさではなく、ほんのり生温かいんです。そのままつまみ、ズルズルと、明かりの下に引き出します。引き出す途中で薄々勘づいてはいましたが、それは、男性ものの靴下でした。前住人が脱いだ拍子になぜかここに滑り込んでしまったのであろう、まるまった男性ものの靴下でした。

 不気味な生き物をつまんでしまった指先の感覚は、知らない人が脱いだ靴下をつまんでしまった指先の感覚にそのまま静かに移行しました。私は、げんなりしながらも安堵し、どっちにしてもいやだなあ、と思いながら、まだ何も捨てていなかった台所のゴミ箱に、その靴下を捨てました。

 今、違う場所で暮らしているはずの前住人は、かつてこの部屋にいたときに、いつか脱いだ靴下の片割れが、どこにもないことを不思議に思って、この部屋中を探してみたりしたのでしょうか。結局、ここにあるとはわからないまま、どうせ、たかが靴下だしな、とあきらめてしまったのではないかと思います。世の中の、失くしてしまったけれど、比較的どうでもよいものとされて探されきらなかったものたちの無念をたくし、私はゴミ箱に、その靴下を捨てました。

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あえぎ声の輪郭は

 墓地の隣のアパートから引っ越し、次にたどり着いたのは自由が丘にある少しおしゃれなアパートでした。墓地の隣のアパートでは、あまりいいことがなかったので、とりあえず安易に明るそうな雰囲気の街へと引っ越しをおこなったのでした。引っ越し当日、大量の段ボールに囲まれつつも、私はこれからはじまる自由が丘ライフに胸をときめかせていました。リノベーションされたばかりの部屋だったので前住人の気配はまるでなく、妙な靴下が出てくる恐れもありません。

 しかし、夜になってその期待はあえなく裏切られます。隣の部屋から、女性のものすごいあえぎ声が聞こえてくるんです。それはもう、快感どころではないというか、どんなめくるめく世界がひろがっていればそんな声になるんだろう、という、まあ、もう、ものすごい、むしろちょっとうらやましくなってしまうようなあえぎ声でした。隣人の人となりを知りたかったけれど、この先あえぎ声を毎晩聞くことになるならば、あまり顔を見たくはなくて、その頃私は朝早く会社に行って夜遅くに帰ってくる、という生活だったのをいいことに、極力隣人と会わないよう、毎日をひっそりと過ごすようになりました。

 最初のころは、ひょっとしたら、隣に住んでいるのは男性で、たまたま遊びに来てる人としていて、その人がすごい声なだけかも、だから一時的なものなのかも、と、かすかな希望を持っていました。けれど、やはり住んでいるのは女性のようで、あえぎ声は、恐らく恋人が泊まりに来ているのであろう週何度かの頻度でずっと続きました。しかし、慣れというのは恐ろしいもので、こうもあえぎ声が続いて、たまに長期的に聞こえなくなったりすると、あれ、別れちゃったのかな......大丈夫かな......と少し心配したりもするようになりました。でも、いつのまにか、けんかしてたのか新しい恋人ができたのか知らないけれど、あえぎ声は復活していて、結局一年ちょっと、私は定期的に流れる壮絶なあえぎ声をBGMとして、一人暮らしの夜を自由が丘で過ごしていました。
 
 そして、私がその部屋を退去する頃、ちょっと前に隣人は引っ越していったようで、結局隣人の姿を確認することはないまま、その部屋をあとにすることになりました。ただ、不動産屋さんへ、鍵を返しにいったとき、ふと気になって、あえぎ声のことは伏せましたけど、 隣人について聞いてみました。私の隣に住んでいた女性って、いったいどんな人だったんですか?

「あの女性ですか……」

  不動産屋さんは少し、困ったように話しはじめました。

「いや、うちもお客さんの素性を詳しく言うわけにはいかないんですけど、あちらの部屋の住人の方、床に、大きな、そうバスケットボールくらいの大きさの、黒くて丸いシミを残していったんです。なにかの汚れが染み付いたのか、焦げついちゃったのかわからないんですけど、とにかく、大きな、黒い丸です。真っ黒です。もうあれ、落とすの大変です。フローリングを全部貼り替えなきゃいけないかもしれないし」

 予想外の答えに、面喰らいましたが、こう、と黒い丸の大きさを手で示しながら話す不動産屋さんは本気で困っているようで、ますますあえぎ声のことは言い出せませんでした。私はただ、隣人の輪郭を知って、 ああ、そんな人だったから、あんな声を出していたのか、と単純に結びつけて、表面的に理解したかっただけなんです。たとえば、明るそうな人でしたよ、とかなら、ああ、あけっぴろげで性に対しても臆することない人だったんだ、とか、小柄な人でしたよ、とかなら、へえ、あんなに大きな声だったのに意外だなあ、とか、私が一年ちょっとあえぎ声を聞きつづけた経験に、なんらかのささやかな着地点が欲しかっただけなんです。でも、あえぎ声、に、バスケットボールくらいの黒い丸、が加わってしまい、私の中に積み重なった、あえぎ声の神秘性はますます深まっただけでした。ためしに、黒い丸が性的快感に及ぼす作用についてどう思うか、その不動産屋さんに聞いてみたかったけど、なんだかわけのわからない人だな、と思われるのも嫌だったのでやめました。

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著者:三好愛(みよし・あい)
イラストレーター。東京都在住。装画と挿絵を数多く手がける。主な仕事に伊藤亜紗『どもる体』、藤野可織『私は幽霊を見ない』、川上弘美『某』、深爪『立て板に泥水』、高橋源一郎『誰にも相談できません』、宮部みゆき『魂手形 三島屋変調百物語七之続』。クリープハイプのツアーグッズ・ビジュアルデザインなども手がける。初の著書『ざらざらをさわる』(晶文社)は「キノベス!2021」15位にランクイン。

短期連載「怪談未満」について
妖怪や幽霊が登場しなくとも、私たちの日常には、「あれっていったい何だったんだろう」と思えるような体験、ざらざらした感触だけが残るような出来事が起こります。私たちはそのたびに「なんだか納得いかないなあ」なんてことを思いつつも、いつも通りの生活に戻ります。でも、起きてしまったことにいちいち立ち止まり、目を凝らしてみたときに何が見えるのか。日常と非日常の境界にあえてとどまってみたときに何が起きるのか……。イラストレーターの三好愛さんがつむぐ言葉をてがかりに、日常にひそむ不可思議を再発見する新感覚モヤモヤ・エッセイ。全6回の短期連載です。


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