作品をオススメするって、奥深くて、難しいね。

なるべく、みんなに読んでもらいたいから、リポストボタンを押してみたり、拡散ボタンを押してみたり、リンクを貼り付けてみたりして、他のSNSサイトにも、note記事を紹介してみる。
過去につくった私の記事を、そのまま紹介していくうちに、色んな人の声に出会い、色んな人の言葉を聞くうちに、自分の言葉で紡いだ作品を読んでもらう数を伸ばすことに悩む人というのは、どうも私ひとりだけでなく、みんな悩むことで、全員思うことなのかもしれないと、知った。

それで、こんなnote内の記事拡散用マガジンというのも、つくったこともある。

ここに登録しておけば、私が読んだ記事の中でオススメしたくなった記事がそのままタイムラインに流れていくので、色んな人の記事が読めるという。
作品そのままの姿で拡散するのであれば、私個人のコメントはいらないだろうから、本当はこういう形で伝わる方が良い。

だけども、ただ、作品をそのままの形で伝えても、思ってるほど飛びついてもらえないというのはある。
私自身が持つフォロワーの数以上にこえることは難しい。

そうなると、こんな駄文のようなオススメ文を付け足して、リンクを貼るような手法に頼ることになっていく。
ほんの一言でさえ、作品の印象を歪めるには、十分だというのに。

先日のMrs.GREEN APPLEのコロンブスという楽曲のミュージックビデオの動画が炎上したのも、作品そのものを観た人の中の何人かが、一言、「この作品は、好ましくない表現が混じっている。というより、全編ほぼ全てアウトに近くて、どこからツッコめば良いかわからない。」とコメントしつつXにリポストした人物があらわれたからだ。
そして、そのコメントに大量にいいねとリポストがついていくという状態となり、作品のミュージックビデオは公開停止となった。

批評家のレンズを借りるというのは、このような広め方をするリスクも孕んでいる。
批評家の言葉ひとつで、作品を殺すことも出来るとも言えるのだ……。
批評家の言葉に触れる前に、コロンブスのミュージックビデオを鑑賞していれば、あの動画を純粋に楽しめたのかまでは、私にはわからない。なぜなら、私自身、ある程度、世界の歴史を学校で勉強してきたので、類人猿モチーフ=差別ニュアンスで使われてきた歴史もある、くらいはほんのり知っている。組み合わせがマズかったとは思うけど、批評家がいる前提で作品つくりをする時代って、表現の自由は、あるけども、ないようなものかもしれない。

岡田斗司夫のレンズの良さというのは、実は彼は、好きな作品を楽しそうにオススメするところなのだよね。
概念のインスタグラムが、ひたすら肯定的なことしか言葉にはしないのも、ちゃんと理由はある。
岡田斗司夫のレンズを通せば、たしかに、作品の読み方は歪んで映るかもしれないけど、彼は、実は作品の歪ませ方でさえ、最大限の配慮が出来る人物なのだ。
彼の世代が持つ、表現の自由への敬意とも呼ぶべき何かが、彼をそのような振る舞いへ誘っているのだと思う。

10万人単位で人が集まり、注目されている中で、発する言葉というのは、一言ひとことが重たくなる。
批判的なことをチョコンと乗せると、それは銃口へ変わってしまうのだから。
岡田斗司夫のレンズは素晴らしいけども、距離をおきたくなる理由は、何も無限に時間を使い果たすほど岡田斗司夫の話が面白いからだけではない。

これはあくまでも私の場合なのだけども、自分のレンズを見失ったまま作品に出会うと、作品を作ることが何より好きなはずなのに、作品を殺す評論家になりそうだからかもしれない。

無邪気に思ったまま、否定的なことも言うX(旧Twitter)という概念は、昔の2ちゃんねるにも近い。あのような掲示板的なノリというのは、本当は「便所の落書き」くらいの影響力で終わらせられたら良かったのに、実際はそうではないのだ。
拒否もすることの出来る権威というのは、存在としては重要なのに、いざ存在すると誰にも扱いきれない暴走列車になってしまう。

インスタグラムは、どうも自分の出来なさ具合をさらけ出すので、出来る人間が自慢話ばかりしているようにうつってしまう。
肯定ばかりしようというのは、さすがに、無理がある。
肯定ばかりする場所にする方向性だと、実際には、うっかりさんがアカウントバンしやすくなるし、人が離れる方向にもなるのだ。
だが、人は、否定をそのまま耳傾けられるほど、メンタル強くもない。

流されない人間ばかりになると、実は、作品は、ほとんど読まれることもなく、見つけられることもなく、流布されにくくなっていく。
そのような中で、発言し続けていけるほど、人は強くもない。
無視されているどころか、発見すらされていないようだということは、実際にビューだとかアクティビティという姿で著者の目の前にあらわになる。
その数字を大きくすることを追いかけようとしたら、もはやアーティスト一人の力ではコントロールができないほどに巨大化してしまったんだ。
かつての出版社やマスメディアがもっていた拡散力は、ネットに移ってきた。
だからこそ、オススメの言葉がてんでばらばらとなっていった。
そうなると、今度は有名な人の数は増えていくけども、有名人が有名であれる規模は、とても小さくなっていく。
小さな規模の王様だ。
だけども、タイムラインが見せる小さな世界は大きく見えるように錯覚させてくれるから、簡単には、自分を謙虚にさせてもらえない。

私は、なるべく、いろんな世界を旅するように、てんでばらばらの世界を見続けていこう。
かわりに、一つの流行に思い込んで熱狂するレンズを手放すことになるのだろうけど。

という記事を読んだ感想文でした。

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