本を読むのが苦手だった
Aを見てBを知る
人は、何かを見て、別の何かについて知るのが好きだ。
たとえば、星の動きを見て、世の中の動きを知るとか。
足の裏を見て、前世からの因縁を知るとか。
茶碗の中の茶葉を見て、今日の吉凶を知るとか。
成績表を見て、受かりそうな大学を知るとか、そういうあたり前のことは面白くもなんともない。
ゴミ箱に空き缶を投げてみて、それが入るかどうかで、合否を知ろうとするほうが面白い。
私の友達は、「これが当たったら合格」と良いながら、雪の積もった冬の日に、雪玉を丸めて、受けた大学名を言いながら、そばにとめてあった自転車めがけて投げた。野球部だったから、その距離なら、ほぼ確実に当たるはずだったのに、不思議にそれた。最後のひとつが、ようやく自転車の端をかすった。すると、その大学に補欠合格した。
こういう出来事は、伝説としてずっと語り継がれる。
私が文学を敬遠してしまった理由
こういう「見たものとは別の意味を得ようとする」という傾向が、本を読むときにも、働いてしまうのではないだろうか?
カフカの『変身』で虫が出てくると、反射的に「この虫は何を表しているのだろう?」と考える人が少なくない。
虫が出てきたら、虫に思えばいいのではないかと、私などは思ってしまうが、それでは星を見て、ただ星だと思うようなもので、つまらないのだろう。
思えば、「書いてあることとは、別のことを表している」というふうに言われがちなことが、私が本、とくに文学を読まなかった理由のひとつかもしれない。
そんな面倒くさいものをなぜ読まなければならないのか。
ある小説に出てきた作家がこんな不満を言っていた(何の小説か忘れてしったのだが)。
「私が小説の中にリンゴを登場させると、みんなそれはトマトを表していると言う。私がトマトを登場させると、みんなそれはリンゴを表していると言う」
「ウサギとカメ」の原話
そういう読み方が楽しい人は、そうすればいいが、私は素直に書いてあるままを読んでいいと思う。
「ウサギとカメ」のような寓話でさえ、それはもちろん、ウサギとカメは人間を表しているのだろうが、そんなことは考えなくても、ウサギとカメとして読んで面白いはずだ。むしろ、二人のおじさんの話として読んだりしたら、すごくつまらない。
教訓を読み取る必要もないと思う。よく知られている「ウサギとカメ」の教訓は「おごらずに努力する者が物事を達成できる」というようなことだろう。
しかし、「ウサギとカメ」の話の発祥はアフリカで、じつはもともとはかなりちがっている。
ウサギと競争することになったカメは、前の晩から、親戚一同を集めて、競争する道のわきの草むらに一定間隔で親戚たちに隠れていてもらう。で、競争のときに、もう引き離しただろうとウサギがふり向くたびに、そばの草むらからさっと飛び出して、「すぐ後ろにいるよ」と言ってもらうのだ。いくら走ってもカメを引き離せないとあせったウサギは、心臓が破裂して死んでしまうのである。
教訓をもし取り出すとすれば、「策略を使う者のほうが勝つ」ということになる。ぜんぜんちがう教訓になるわけだ。
つまり、教訓がもとにあって、話が作られたわけではない。話がまずあって、教訓を得たい人はそこから得ているだけなのだ。
だから、読み方は自由だ。
「本当の意味」幻想
私は難病になったときに『変身』を読んで、難病患者のドキュメンタリーだと思った。
しかしそれは「『変身』はじつは難病患者のことを書いてある」というわけではない。
勝手に自分なりに読んでいいのである。
いろんな〝自分〟にあてはまるのだ。
そこに文学の力がある。
そう気がついてからは、「本当の意味」幻想に惑わされることなく、文学を読めるようになった。
何かを見て、別の何かについて知るのも面白いが、何かを見て、ただその何かだけを知るのも、また面白いものだ。
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