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086明らかに「環境で損」してても口に出さず耐えている、ガマン強いあなたに伝えたい

「環境に文句を言ってはいけない」は常識?

「置かれた場所で咲きなさい」

この"美しい"フレーズを、誰しも一度は聞いたことがあるのではないだろうか。

もちろん、"美しい"のはレトリックのみで、
その言葉の裏側には、
「環境に文句を言うやつは大成しない」
「何かのせいにするやつはロクでもない」
という、いわゆる”オトナ社会人”のありがたいお説教がある。


何ごとに対しても自分の責任を自覚せよ。
自責思考。文句言わない。
うん、確かに大事ではある。

でも、僕は断言したい。この言葉はウソである。

使いやすくて都合がイイだけのフレーズ


このフレーズが広がった要因はいくつかあるだろう。
例えば、こんなところだ。
①比較的キャッチーであること
②見かけ上のキレイさ(仕事の心構えを”お花"でなぞらえている)


そして、3つ目に、僕ははこう考えている。
これは、このnoteのメインテーマだ。

この言葉は
③「大人の事情を押し付けるのに都合が良いがために、意味が曲がって使われている」
のではないか。
僕は、そう感じている。

「三連続ハズレ」の環境ガチャ

僕は今まで、職場環境に恵まれたことが一度もない。
そう公に宣言すると「あいつは無能だ」と烙印を押されるのが今の風潮ではある。よくわかっている。

でも、どう見てもそうなのだ。

最初の上司はいわゆるパワハラ系で、部署の雰囲気は最悪だった。
根性論や精神論を部下に押し付ける文化が横行していて、
互いに足を引っ張り合い、手柄を横取りし合っていた。

次の部署では真逆。
他人に干渉しない個人主義で、ドライを極め切った先輩社員たちがいた。

それでもなんとか耐え抜いて、やっとの思いで転職した先も、「恵まれていない」「大変そう」「不遇」と周りから評判が立つような環境だった。確かに、そのしわ寄せは何回か、明確な形で訪れてはいた。(念のため補足しておくと、僕自身は、採用してもらった恩を忘れたことは一度もない)

ただ、さすがにここまで続くと、「ああ、僕はそういう運命なのだろうなぁ」としか、思えずにいた。


そうして、他の同期や同級生が花を咲かせるのを外から見ていた。

恵まれた環境というのは、ある。

そんな中で、「自分も何とかして咲こう、咲こう」。
努力しては、つまずく日々。

「置かれた場所で咲きなさい」の呪縛は、気づかないうちに重くのしかかっていた。


それでも「最大の幸運」は得ていた

しかし、「見放された」と気づいてから冷静に考え直してみると、ある事実が頭をよぎった。

それは、そのような環境の中でも、
「一緒に働く"人"には恵まれてきた」という動かしがたい真実だった。

これは、「誰に何を言われても、たとえ私には神様がいなかったとしても、100%正しい」。私は素直に、そう感じたのだ。

私は社会人になってから、一度も環境に恵まれていない。けれど、人に全く恵まれないなんてことも、同じように一度もなかったのだ。

「上司に従うだけが、正しいわけではないぞ」と教えてくれた先輩。
毎日怒られ続けて職場に居場所がなくなった私に「飲み行くか?」と誘ってくれた恩人。
組織に染まりそうになった私に、純粋な原点を思い出させてくれる後輩。

そのほかにも、記憶はいつでもシーン毎に蘇ってくる。
そういう人たちが、僕の周りにはいてくれた。

確かに、私はこれまで、いわゆる「環境」にはご縁がなかった。
けれど同じくらい、自信を持って断言できることが、きちんとあったのだ。

そこで咲く必要なんてない

「置かれた場所で咲きなさい」

改めて読んでみると、なんて主語が大きくて、説明不足なままなのだろう。


こんな、まるで正しいかのように聞こえてしまうカッコつけただけの美辞麗句が、いかに多くの人に我慢を強いているのか?

想像するだけで、なんだか悔しくなってくる。

本来は、「置かれた場所で、”咲く”必要」なんてまったくない。

置かれた場所で、何をしたのか。
自分がどう努力して、踏ん張ったのか。
どうしても上手くいかなかったとき、何を思ったのか。
それでも一体、何は譲れなかったのか。

大事なのは、置かれた場所の評価なんかではない。
そんな小さな歴史など、
すぐに消えてしまうに決まっている。

それよりもっと大事なのは、
「誰が、自分を評価してくれたのか」
だ。

今だからわかることがある。
口だけの「期待してるぞ」にも、
高圧的な「どこから給料出てると思ってんだ」にも、
「僕ははてめぇのために生きてるわけじゃねんだよ、上から目線でうるせぇバーカ」
と、思っているくらいで、ちょうどよかったのだ。

そもそも「咲きなさい」は誰目線か?

そういえば、そもそも「~なさい」は命令形である。
誰かの価値観を押し付けられて咲いた花は、果たして綺麗だろうか?
本当はきっと、今よりもっと綺麗な花を、誰しもが持っているはず。
僕はそう考えている。


最後に、僕の経験を踏まえて、少しだけあの言葉をアレンジしたい。

「置かれた場所で、咲こうとしなさい」

本当は、これくらいが十分なのだろう。

どんなところでも、
どんなときでも、
「咲こうとする花」を見逃さない誰か
だけは、必ずどこかにいるはずだ。

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