[長編小説] くちづけ


文庫本として発行している小説の試し読みです。
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ボーイズラブ作品ですので、ご理解のある方のみどうぞ。





くちづけ








あの日の先生ほど美しいものを、私は生涯目にすることはないだろう。


《卯月》

給食も終わり、クラスが微睡み始めた頃、カツカツと白いチョークが黒板を引っ掻く。やたらと角ばった神経質な文字で、鹿児島県 伊佐市立 中央中学校二年一組の新担任は「舞田はじめ」と小さな文字で書いた。
 白いシャツに紺のネクタイを締めた舞田は、中年教師が多い中学校の中では珍しい、新卒採用の教師だった。それなりに整った顔の若い男が担任に決まり、女子たちは浮き足立っている。かしましい声が教室を埋めるのとは反対に、男子は気にくわない顔で、若いなら女が良かったと好き勝手に騒ぐ。
 美沙は新しい担任をさしてかっこいいとは思わなかった。むしろ、午前中の対面式で初めて見たとき、カエルみたいな顔だ、と感じた。ぎょろりとした大きな目玉に三白眼。人間というよりも爬虫類や両生類っぽい顔つきだと感じた。
 そもそも美沙は生身の男に興味がない。筋金入りのオタクである美沙は、平面的な男を愛していた。周りの男子は子供っぽすぎる。くさいし、喧しいし、美沙に対して優しい言葉をかけてくれるどころか、メガネだの、おかっぱだのとからかってくる。
 画面内のキャラクターは美沙をいじめたりしない。舞田に騒ぐ女子を横目に、貴方のほうが百倍はかっこいい、と筆箱につけている推しキャラのラバーマスコットに語りかける。
 美沙と同じく美術部員の加奈子が背後からこっそりと話しかける。舞田先生は幽霊みたいやない? とくすくす笑う。
 美沙は、確かに、と思った。幽霊みたいでもある。まっ白くて、生気がない。土埃が舞う校庭よりかは、校舎の裏にあるビオトープが似合いそうな、陰気な雰囲気を醸し出している。
 こういうタイプの先生に、美沙は初めて出会った。幼稚園の頃から、先生といえば底抜けに明るくて、嫌味なくらいに元気なものだった。教室で絵を描いていた美沙を無理やり外遊びに連れて行こうとする人ばかり。
 陽のオーラに溢れた先生たちに、ハキハキとした大きな声で「校庭に行くぞ!」と指示されると、美沙は気持ちが沈んで仕方なくなるのだった。
 先生は美沙の世界がわからないのだ。気に入ったキャラクターや動物の姿を、ノートに現して行く作業は、美しく、気高い行為である。砂埃にまみれて球を蹴ることよりも、ずっと楽しくて素晴らしいのに、それを理解してくれた先生は今まで一人もいなかった。
 その点、美沙は舞田に期待をしていた。妙に仄暗い雰囲気だということもそうだが、舞田はこの中学の新しい美術の教師なのだ。
 三月まで美術部の顧問をしていた刈谷先生、通称カーリーは、気の強いおばちゃん先生で、デッサンばかりをさせるから、漫画が好きで美術部に入ったような部員とはソリが合わなかった。
美沙もその一人で、描いていた漫画を「こんなものは芸術ではない!」と怒られた挙句、破られてから、美沙はカーリーが心底大嫌いだった。
 いくら顧問が嫌いでも、友達もいる部活を辞めたくはなくて、定年退職するまでの一年間耐え忍んだのだった。
 新しい顧問になるのは、きっと舞田だ。年齢的に、保護者からのクレームが来そうなことはしない。都合がいい、と美沙は値踏みした。
 顧問としての期待値を含めて、美沙は舞田に星四つの評価をつけた。一つ足りない星は、あまりにも暗すぎるために食らわせた減点だ。
「山元、山元美沙…… 欠席ですか?」
 頭の中であれこれ値踏みをしているうちにホームルームは進んでいた。名前を呼ばれた生徒が、舞田から書類を受け取っていた。
「美沙!呼ばれとる!」
 加奈子に背中を突かれてようやく意識が現実世界に戻って来て、慌てて席から立ち上がる。
「……考え事もいいですが、話は聞いておいてください」
 低く響く声で叱られて、男子から笑われた。
 恥ずかしくなって顔を火照らせる。笑った男子を睨むことさえできやしない。自業自得なのはわかりながらも、頭の中で評価の星を一つ減らす。
 舞田の手から、大きな茶封筒を受け取る。去年と同じ、住所や健康情報が書かれた個人情報セットだろう。
「一年間、よろしく。山元さん」
 舞田が口角だけを上げて笑う。近くで見るとまつ毛が長くて、背が高い割に中性的な雰囲気を漂わせている。
舞田から、どこかで嗅いだことのある匂いがした。匂いのありかを脳内で探しながら、何も言わずに一礼だけして席に戻る。
美沙には少し高すぎる椅子をぎい、と引いた時に、線香だ、と気がついた。隣の家のおばちゃん家から、四六時中漂ってくるあの匂い。その匂いが舞田からしたのだ。
 あの年の男から、線香の匂いがするのも珍しい。
 それに、舞田の喋りからは訛りが出てこない。
 珍しいことだらけの舞田に、皆は明らかに興味津々だった。
 お調子者の野球部の男子が勢いよく手を挙げる。坊主頭にしたことで目立った頭の形が由来で、皆から「ゼッペキ」と呼ばれている男子だった。
「先生どこから来たん?」
「東京です。残念だけど、あまりおしゃべりする時間はないので…… 次に教科書を配布するので、職員室から持ってくるのを手伝ってくれる人は付いて来てください」
 そういうと舞田は扉をあけてさっさと出て行ってしまった。俺が行く、と力に自信のある運動部男の子が6人、舞田のあとを追いかけて行った。
 残った女子たちは、早速クラスのリーダーポジションを獲得したくぼちゃんを中心に、舞田の品評会を始める。
「東京やってさ、なんかおしゃれな感じしたー」
「けどなんでわざわざ東京から鹿児島来るんけ」
「なんかあったっちゃない?」
「なんかって、なん」
「わからんけど、実家が伊佐やったとかさぁ」
「それやったら方言使うはずやん?ばり標準語やったよさ」
「そんなんうちに言われても知らん。彼女か奥さんがここの出身とかなんやないけ?」
 その言葉で、水を打ったように静まり返った。皆、舞田に本気で夢を見ていたわけではない。少しの非日常を味わっていただけなのだ。一様にうつむいて、次の言葉を探しあぐねていると、すかさず、くぼちゃんがフォローに入る。
「指輪してなかったけん。そういうんじゃなかて! それに、もし彼女とかだったら線香の匂いはせんはずやしよ」
「そうよねぇ!」
 女子の声が重なる。書類に目を通すふりをしながら聞き耳を立てていた美沙は、やっぱり線香の匂いだったか、と再確認した。
「でもなんで線香の匂いするんかね」
「ん〜〜」
 女子たちがあれこれと思惑を膨らませているうちに教科書の束を抱えた男子と舞田が戻って来た。舞田の額にはうっすら汗が浮かんでいる。1階の職員室から3階の教室に持って上がるのが相当応えたようで、息が切れている。古い校舎は階段の傾斜も急なのだ。見た目と違わず体力もさしてない舞田は、生徒たちよりも軽い束を手にしていた。
「……はい、それでは列の一番前の人……人数分……取りに来てください……」
 息を切らしながら、生徒に5冊か6冊か、教科書やらワークブックを手渡していく。体力のなさを目の当たりにして、女子たちの最高潮に達していたテンションが徐々に、でも確実に下がっていく。まだ運動神経の高さや運動会での貢献度が、モテに大きく影響している年代である。階段を上がるくらいでぜえぜえと呻くような貧弱な舞田は、速攻で「おじさん」認定されてしまった。中学生は時に恐ろしいくらいに残酷である。明らかに態度を変えて、がっかりとした表情を露骨に表した。
 舞田は気に留めないようにしているのか、気がついていないのか、あくまでも淡々と新年度の業務をこなして行く。新卒で余裕がないことを差っ引いても、舞田は仕事ができない類の人間なのだ、と教室の全員が確信した。ただ教科書を配るだけなのに、もたついて仕方がない。無駄な動きが多すぎるのだ。
 全員に全教科の教材が揃った頃には、もう終業時間になっていた。美沙の去年の担任だったベテランの国語教師は、時間を余らせてレクリエーションをする時間まであったというのに。
 見た目の期待値が高かった分、仕事もできずに、体力もなくて生徒たちは余計にがっかりした。教室内での舞田の評価は急降下していった。
 くぼちゃんをはじめ、新担任に胸を踊らせていた女子たちは、伸ばしていた背筋を丸め始めていたし、目の輝きは消えていた。
 授業時間が終わる頃には、舞田への扱いはすっかり変わってしまっていた。
「起立、気をつけ、礼。ありがとうございました」
 間延びした声で日直が帰りの挨拶の号令をかけると、ダサくて有名な真っ青な学校鞄を担いで三々五々に教室を去って行った。
 美沙は加奈子と並んで、4階の美術室を目指して階段を上る。新一年生募集のポスターの仕上げをしないといけないのだ。イラストは描き上がったので、レタリングをして終わりだ。入学式は明後日なので、それまでにはなんとか完成させたい。
 美術室に入ると、部長であるルイ先輩が手招きをした。前髪もまとめて一つに縛り上げ、おしゃれな丸眼鏡をかけたルイは、いつ見てもスタイリッシュだ。ルイが手にしていたのは一枚の鉛筆デッサンだった。それだけではなく、前回にはなかったスケッチブックの山が、教師用の机の上にこんもりと溜まっていた。
 窓際のおきまりの席に鞄を置いて、先輩の元へ飛びつく。
「美沙、あんたこれ知っとう?」
 首を振ると、先輩はさらに深く首を傾げた。
「うちらが描いたんじゃなかやん?」
鉛筆デッサンはカーリーにめちゃくちゃにやらされていたので、それかと思っていたら、そうではないらしい。
 ルイに促されて、画用紙を一枚ずつめくっていくと、後ろから加奈子が覗き込んでくる。描かれているのは、私たちがカーリーに描かされていたモティーフではなかった。光沢を描くのが難しいラムネの瓶でも、真っ赤な林檎でも、ところどころ欠けたローマの石膏像でもなかった。それは大量の、男性の肖像画だった。
 一番上の紙に描かれていたのは、笑顔が眩しい男の子だった。子供が描いたような、太くて勢いのある線だった。鉛筆の筆圧は強く、ゴリゴリと描かれていることがわかった。日付は、十五年前の八月。
 二枚目もにっこりと笑った男の子だった。線は少しだけ細くなって、画面の中の男の子が一歳歳をとったことが、右下に書き入れられた日付からわかった。
 一枚ずつめくっていくごとにスケッチは少しずつ上達して、画用紙に描きとめられた男の子は一歳ずつ歳をとっていった。表情は少年から青年へと変化していき、無邪気なだけの笑顔には憂いが匂ってくるようになった。記されている日付は皆、夏真っ盛りの八月の終わりだった。
 画用紙を手繰って、七年の月日が経過した。絵の中の男の子はだいぶん大人びて、画力もかなり向上した。一番うまいルイと同じか、それより少し下くらい。
 吸い込まれるように、次のページをめくる。構図が変わった。正面から切り取るだけだった七枚とは違い、机に伏して眠っている姿を描いていた。日付も四月になっていた。眠りこける姿がほのぼのとした雰囲気で描かれていた。
 次の一枚は、笑っている横顔。きりっと引き締まった顔面に浮かぶ柔和な笑みは、心を惹きつけた。今までの七枚と比べ、途端に絵の魅力が増した。
切り取られる場面は日常空間へと移った。ソファで眠っている姿、風呂上がりにタオルだけ巻いて冷蔵庫を漁っている姿、机に座る後ろ姿、テレビを見ている姿……
 青年の日常を切り取っていた。描き手とモデルはかなり近しい存在に変化したのだろうか。机を挟んで向かい合う距離感から、隣に並ぶ距離になった。
 けど、きっとモデルの人物は描き手にとって兄弟でも、息子でもない。絶対に恋愛関係にあったはずだ。美沙はそう確信した。画面が色っぽくなった。輪郭は柔らかく、筋肉は艶っぽく、向けられる表情は甘くなっている。
 何冊も、何冊も、同じ人物を飽きずに何日かに一回、ひたすらに描いている。学生だった男性は、スーツをまとい始め、十枚に一枚くらいはヒゲが生えるようになった。筆致は恐ろしいほどに上達し、モノクロ写真かと見まごうものもあった。
 ページをめくる手が止まらなかった。美しくて、日常の暖かさも感じられて、でもヒリヒリした感情が伺えるものも、悲しみや怒りが吐き出されているものもあった。描き手が、モデルに対してどんな感情を持っていたのかがわかる。何年もの歳月が経っても、痛いほど生々しく訴えかけてくる。
 ただのデッサンに、これまで心が揺り動かされるなんて知らなかった。
 とうとう最後の一冊になった。名残惜しく思いながら、表紙をめくり、焦ってすぐに閉じた。一緒に見ていた加奈子が、なんで閉じるのよ、とスケッチブックを開いて、中身を確認して頬を赤らめた。
 布団に裸でくるまって眠っている男性の姿。それは明らかに情事の後を切り取った一枚だった。上半身だけが布団から見えて、うつ伏せになっている綺麗な背中が描き込まれている。
「これは……ちょっと刺激が強いわ」
 加奈子の言葉に頷く。漫画の中でちょろっと差し込まれているエッチなシーンをとは比べようがない。なにせ、実在する人物をモデルにしていること、その人物と画家がまぐわった後だということが、明記されてはいないものの、わかってしまうのだ。女子たちは、本物の性交なんて目にしたことがない。それなのに、デッサンは本物と同じくらいの強さで語りかけてくる。
 逸らしてしまった視線を紙の上へと戻らせる。目が固定されたかのように画面から逃げることはできない。引力と似た強い力が働いていた。
 寝転がる男の背中にはうっすらと引っ掻き傷が左右対称に刻まれている。ウブな女子中学生たちは、それが何かはまだわからない。
 加奈子が恐る恐るページをめくって、息を飲む。
 また、ベッドシーンだった。パンツ一枚で、ベッドで眠る男性の姿。下着の中心は汚れていて、執拗なほどに描き込まれたシーツの皺が行為の激しさを物語っていた。
 無言のまま、ページを何枚かめくると、どれもこれも情事の後の気だるさを漂わせていて、これ以上見れないと判断した加奈子が、大きな音を立てて盛大にスケッチブックを閉じた。パン、と硬い音が響き、紙の繊維が舞い上がる。
 美沙と加奈子が、なんとも言えない気まずさを抱えながら見つめ合っていると、ルイが口を開いてポツリと呟く。
「私らがこんなの描けるわけないもんな」
 後輩二人は口を横一文字に結んだまま頷く。エロティックな情景をモティーフにできるほど、まだ成熟しきっていない。そもそもこんな画力は持ち合わせていない。
「これだけ、作者が違うはずなんだ」
 ルイが持っていた画用紙を、美沙が卒業証書授与のように恭しく受け取る。
 描かれているのは男の子、けれどこの大量のデッサンのモデルとは違う。拙い絵だが、それはわかった。坊ちゃんカットの髪に、おどおどとした目つきで、その少年は切り取られていた。右下の日付は十五年前の八月。きっと最初の絵と同じ日に描かれた。
 窓から風が吹き込んで、持っていた紙が浮いた。ひらりと一回転して床に落ちて、裏面に書きとめられていた文字が露わになった。
「はじめの肖像画 byハル……」
 ルイが読み上げて、加奈子がはしゃぐ。
「舞田先生だ。小さい頃の先生だ」
 そう考えてみると、確かに面影があるように思えてきた。大きな丸い目、白い肌、癖のない真っ直ぐな黒髪……
 舞田の登場とともに姿を現したスケッチの山に、名前の一致。関連がないと結論づける方が難しい。
 短気なところのある加奈子が、先生に聞きに行こう、と提案して、ルイの、「乗った」の一声がかかった。たったの三人しかいない美術部員は、全員で職員室の舞田の元へ突撃した。
「失礼しまーす、舞田せんせぇ」
 書類を整理してた舞田は四角い縁の黒い眼鏡をかけて、昼とはまた雰囲気を異にしていた。いきなりクラスの生徒でもないルイに声をかけられて、訝しげな表情を浮かべる。整理している途中の紙の束を几帳面に角を揃えて、ゼムクリップでまとめる。古い椅子をギイ、と鳴らして、ぽりぽりと首を掻きながら廊下に出てきた。
「どうかしましたか」
 用があるならとっととしろとでも言わんばかりの面倒くさそうな舞田に、ルイが『はじめの肖像画』を眼前に突きつける。
 提示されたものを理解すると、元から大きかった目が見開かれて、驚愕とも怒りともつかない表情を見せる。拳が強く握りしめられた。
「舞田先生こんにちは。美術部部長の有島ルイです。これ、先生の私物ですよね」
 舞田は肖像画をルイの手から取り、美術部員に睨みを効かせる。
「そうです。私のものです。君たちは、人のものを勝手に触って良いと教育を受けてきたんですか。前の顧問の先生はそのように教えましたか」
 文面だけ見れば諭しているように見えなくもないが、ヤクザの若頭を思わせる目つきとドスの効いた低い声、怒っているのは明らかだった、はしゃいでいた空気が一気にピリついた。ホームルーム時の弱々しい姿とは一転し、怒り露にした舞田はカタギの人間には見えなかった。
 ルイは引き下がらなかった。
「美術室に大量のスケッチブックが置いてあって、美術部員が何も見ずに放っておくとでも思っていたんですか。それとも……」
「おい!」
 ルイの言葉を遮り、舞田が途端に大きな声を出した。周りの生徒や教師の視線も舞田に集まる。舞田がルイの肩を強く掴んで、顔をぐいと近づけた。さながら詰問か尋問のようだった。
「スケッチブックも見たのか」
 一日中、ですます調を崩していなかった舞田の言葉遣いが変化した。それほど焦っているのだろうか。苛ついている左足は、地面を激しく踏みならしていた。
「どこまで見た」
 ぎらりと睨む視線がルイに突き刺さる。余裕を見せていたルイだが、大人の男に急に詰め寄られれば、怯えてしまうのは無理もない。
「え、どこまでって……」
 加奈子と美沙が、最後の一冊のことを言っているのだろうか、と目を合わせる。ルイもいよいよ本格的に焦り始めた。口をモゴモゴさせていると、舞田の怒りと焦りが絶頂に達した。
「どこまで見たかと聞いているんだ!!」
 語気を荒げて、肩を揺さぶる。
 ルイは完全に怯えて、いまにも泣きそうである。舞田の怒号に、教頭が飛んできて二人をひっぺがす。
「ちょっと!舞田先生何してるんですか!」
 肩を掴んで離さない舞田を教頭が突き飛ばす。ルイがぺたりとその場にしゃがみ込み、目に涙を浮かべる。美沙と加奈子はどうしたらいいのかわからないまま立ちすくんでた。
「あなたたちは今日はもう帰りなさい。いいですね」
 美沙と加奈子は頷き、ルイを覗き込む。放心していたルイがゆっくりと立ち上がり、ペタペタと上靴を引きずりながら美術室まで向かっていく。
 美沙は教頭に一礼して、加奈子とともにルイの後を追いかけた。大きく見えた先輩の背中が、一番小さく見えた日だった。
 ルイのゆっくりした歩調に合わせて、二人ものろのろと階段を上る。
「先生、あんなに怒るってさ、なんやったんやろ……」
 加奈子の問いに、美沙は首を傾げてわからない、と答えた。どうしてあれほどに怒ったのだろうか。絵のモデルはどう見たって舞田ではなかった。明朗快活といった男性と舞田は似ても似つかなかった。舞田がモデルとなっていたのは、『はじめの肖像画』のただ一枚だった。
 自分がヌードモデルをしていた絵が見られたのなら、怒っても然りだとは思うが、そうでもない。それに、あの絵を描いたのが舞田なはずがない。
 モデルと作者は恋愛関係にあるに決まっているのだ。そうでなければ、モデルがあれほど無防備な姿や甘えた表情を描き手に見せられるはずがない。
「よぉわからんけど、こわかった……」
 先を歩くルイがこぼす。大人の男に詰め寄られれば、怖いに決まっている。そうでなくても、舞田はただでさえ陰気で目つきが悪い。
三人とも口を開かず、黙々と四階まで階段を上っていく。一段一段がやけに長く感じた。
美沙は悶々と考え続けていた。なぜ舞田があれほどにも怒ったのか。そして、瞳に映っていた不安の影はどこから来ていたのか。私物を学校に持ち込んだことがバレたくないのであれば、騒ぐ必要はなかっただろうに。
 美術室に戻っても、当然だがスケッチブックはそのままあった。ルイが一番上のスケッチブックに肖像画を挟む。
 美沙は、家に帰ってから仕上げてしまおうと、完成間近のポスターとアクリル絵の具の箱を鮮やかな青の学生鞄にしまいこんだ。ルイも加奈子も、おとなしく帰宅の準備を始めた。
「なんやったんやろ……」
 加奈子が呟く声が虚しく響く。美沙はうつむいて、彫刻刀で彫られた、誰のものかもわからないイニシャルの傷跡を指でなぞる。美沙は吸い付くような感覚が好きで、いつもこの机に座っている。
帰らなければいけないと思いつつ、足に根が生えたように動けないでいると、階段を上る音がする。たん、たん、と木製の廊下を革靴が叩く音がやけに厳しく響く。
四階にある教室は、視聴覚室と美術室だけ。放課後に使うのは、美術部員の三人だけだった。教頭先生がやってきたのだろうか、と思いながら緊張した面持ちで扉を凝視する。
立て付けの悪い引き戸がギイ、と開いて美沙が息を飲む。
そこには舞田が立っていた。案の定息を切らしていた。ぜえぜえと白い体を丸めて壁に手をついている。
顔には先ほどに見せた怒りは浮かんでいなかった。その顔に少しほっとした。
「みなさんと少し話がしたくてきました。座ってもらえますか」
 舞田は入り口から一番近い六人がけの机を指して、入り口側の椅子に自分が腰掛けた。三人はおとなしく椅子に腰掛けた。舞田の正面には美沙が座った。
「まず、申し訳ありませんでした。大人として取るべき対応ではなかった。怖がらせてしまいました。誠に申し訳ない」
 深々と頭を下げる。丁寧な対応に拍子抜けしてしまった三人は、驚いて顔を見合わせる。悪いと素直に謝ってくる教師は珍しかった。
「そして、気になってると思うのであれについて話します」
 舞田は机に山盛りになっているスケッチブックを指差した。
「そちらの、部長さん……」
「有島です」
「有島さんが持ってきた絵は、私の……友人が描いたものです。モデルは小学生の時の私です」
「やっぱり!」
 加奈子が素直に言う。謎を解いた爽快感で加奈子は上機嫌だ。
「そして、あのスケッチブックは私が描きました」
「うぇっ!」
 驚愕のあまり、ルイが奇妙な声を出す。だって、あれはモデルである男性の恋人が描いたはずだ…… 先生なはずは……
「スケッチブックはどこまで見ましたか?」
 舞田が不安いっぱいの瞳でこちらを伺う。捨てられた子犬のように切なげな目をしていた。
 美沙が、逡巡していると、両隣の加奈子とルイからそれぞれ肘で小突かれる。
「上の方の3冊くらいです。そうだよね、カナ!」
「はい!そうだよね、美沙!」
 二人の圧に押されて、美沙もこくりと頷いた。
「そうですか…… なら良かったです。私物を校内に持ち込むべきではないとは思うのですが、家に置いておけない事情がありまして……」
 舞田は膝に置いていた手をきゅっと握りしめた。噛み締めすぎた唇は色がなくなっている。安堵からか、目は若干潤んでいる。
「先生、これ、モデル誰なんですか!」
 調子に乗った加奈子が問いかけると、舞田の表情が一気に曇る。やってしまった、とさえも気がついていない加奈子はわくわくして答えを待っている。
 しばし視線を彷徨わせた後、すうっと息を吸う。
「……モデルは、兄です」
 誰とも目を合わせることなく低く細く言葉にした。その言葉が嘘であると言うことは誰の目にも明らかだった。声は震え、動揺と混乱が伝わってきた。
 だけれども、誰も舞田の嘘を解き明かそうとしようとはしなかった。大人の男が小さな子供のように小さく見えた。それほど悩ましい表情をしていたからだ。嘘を見抜いていると伝えるのは、あまりにも酷だった。
「綺麗なお兄様ですね」
 ルイの言葉は、優しさからきた嘘だった。
 舞田は愁眉を開いて、口元に笑みを浮かべた。
「ありがとう、有島さん。君たちはもう帰りなさい。色々と整理しなくてはならないことがあるんです。生徒に見せられないものも。個人情報とか、いまは厳しいですから」
 舞田は薄く笑って席を立った。
「改めて、新しい顧問の舞田はじめです。よろしくお願いします」
 軽く会釈をした舞田は、眼鏡をかけ直して美術準備室へと姿を消した。

《皐月》

舞田の授業は割と好評だった。スタンダードなものを課題にすることが多かったが、生徒を貶すことなく淡々と改善点だけ適切に指示していくからだった。
 五月の授業課題は、風景画だった。地元愛好月間だったこともあり、美術の授業も関連することにするように、と指示があったらしい。
 テーマは「私の愛する伊佐の景色」だった。舞田が考えたのではないな、と生徒は誰でも思った。舞田の課題は、デッサン、とか水彩画、とかシンプルな題名のものばかりだった。学年主任の先生あたりにでも押し付けられたのだろう。
 風景画の基本的な描き方の授業を受けた後、学校全体での大スケッチ大会が行われることになった。毎年恒例なのだ。五月下旬の、うだるように暑い午後のことだった。給食が終わると、校庭に全校生徒が集められる。校長の長いスピーチがおわると、スケッチブックと鉛筆と絵の具セットを持って、二百人あまりの全校生徒が校区全体に散らばって行く。 
 教師の数が二十人、それぞれの教師が十人前後の生徒を引き連れて、事前に決定したスケッチ場所へと連れて行く。
 美沙は郡山八幡神社を選んだ。神社の厳かな雰囲気が好きだったのもあるが、担当教諭が舞田だったからだ。去年、行きたい場所で選んだら、執拗に構図に口出ししてくる先生でうんざりしたのだった。その点、舞田は必要最低限しか口を開かない。
 四キロほどある神社まで、小型バスで向かう。八幡神社を選んだのは美沙を合わせて6名。細工を描くのが難しく、立候補者が毎年少ないのだ。絵が苦手な生徒が希望する山や川の班は、毎年希望者が多くて抽選になっている。
 美沙は、頭の中でどこを描こうか構想を練っていた。頭の中で神社をぐるぐると回転させた。
寝息が聞こえて目をやると、教師だと言うのに、舞田は窓に頬杖をついて居眠りをしていた。まあ、舞田先生はそんなものか、と皆さして気にもとめない。
神社について、白髪混じりの髪を蓄えた初老の神主に挨拶を済ませると、生徒は各々描きたい場所へと移動する。美沙は本殿近くのベンチに腰をおろした。
ちょうど、舞田と神主が話しているのが視界の端に入る位置だった。喋り声は創作の邪魔になるけれど、美沙はこの日ピンときた構図を描くことを優先した。
この日のために何本も念入りに研いできた鉛筆を筆箱から取り出す。鉛筆をモティーフにかざして、構図を決めかねていると神主と舞田の会話が聞こえてくる。
「いやぁ、どこぞで見たことあるっち思いよったら、舞田先生んとこのはじめ君やったとか。わっぜ大きゅうなってぇ」
 神主が舞田の肩をぽんぽんと叩く。舞田は口だけに笑みを浮かべる。不器用な舞田は愛想笑いも下手だ。
「にしても、なして伊佐帰ってきたんね。はじめ君は東京育ちやろが」
舞田は頭を掻きながら、どこか気まずそうに理由を語る。
「祖父が腰痛めて、一人にするのも不安だったんですよ。父も母も仕事は忙しくて伊佐には帰って来れそうになかったですから、俺くらいしか」
「そっかぁ、先生んとこ、奥さん亡くなられたもんなぁ。あんなにたくましかったが、年には勝てんのねぇ。優しかね、はじめ君は」
 舞田は申し訳なさそうに俯く。小さな、誰にも聞こえないような声で、優しくなんてない……と独り言ちる。それを神主は不安に感じていると捉えたのか、見当違いに慰める。
「何、心配しよっと。町一番の校長先生じゃった健三さんの孫じゃけん、大丈夫じゃって。きばいやんせ!」
困ったように舞田は笑い、ええ、まぁ、と曖昧な返事を返す。
 消しゴムを忘れたらしい三年生の男子が、舞田のところへと向かう。去年のスケッチ大会でルイを破り、金賞をとった生徒だ。ちょうど会話の最後の当たりが耳に入っていた。
「なん、舞田先生こっちに住んどったことあるん」
 その言葉に神主がけらけら、と笑う。
「住んどったちゅうか、毎年夏休みの間来よったんよなぁ」
「ええ、そうです……両親が忙しかったので、祖父の家に預けられていました」
「ふ〜ん」
 男子生徒は大して興味もなさそうに、舞田から消しゴムだけ借りて、自分の持ち場に戻って行った。
「考えてみっと、よぉ毎年来よったな」
 神主の言葉を受けて、舞田が詳しい状況を付け加え始める。美沙は二人のいる方へ体を傾けて聞き耳を立てる。デッサンの手はさっきから止まったままだ。

舞田の祖父は伊佐の小学校の校長を長いこと勤めたちょっとした有名人である。舞田健三、舞田はじめの祖父であるその人は、しっかりとした頼もしい校長先生として地域住民から好評を博していた。
 そんな校長先生の自慢の一人息子が、舞田の父だった。この辺り一番の秀才だった彼は、校長先生の誇りだった。
手塩にかけて育てた可愛くて頭がいい子供こそ家を出て行ってしまう、というのはよくある話で、舞田の父も例に漏れず、東京に出た。そのまま外資系に勤め、今もエリート街道をまっすぐに、ひた進んでいる。
 舞田の母は、父と職場恋愛で結婚した東京生まれ東京育ちのバリバリのキャリアウーマンだった。息子のために大幅に時間を空けることを厭い、面倒臭い親戚づきあいを頑なに拒んだ。それはたった一週間の帰省であってもだった。
 舞田の家に親戚が多いことと、多忙さを言い訳に、舞田の両親は葬式でもない限り伊佐へは赴こうとはしなかった。
 その身代わりのように夏休みの間ずっと舞田の家に放り投げられていたのがはじめだった。都会育ちの典型的なもやしっ子だったはじめ少年を鍛えるためだ、というのが両親の建前ではあったが、母による面倒臭い義両親の口封じと、厄介払いにすぎなかった。
 部屋で黙々と本を読んだりゲームをしたりするのが性に合っていたはじめと、元気で明るく社交的な母はいつまで経ってもそりが合わなかった。陰気臭く、家に閉じこもってばかりいるはじめに嫌気がさした母は、小学校に上がった年から、毎年夏休みの間、はじめを伊佐で過ごさせていたのだった。
 はじめとしても、習い事に行け、勉強しろと怒る母よりも、おおらかな目で見てくれる祖父母の家の方が好きだったし、穏やかに時間が流れる伊佐のまちの方が何倍も大好きだった。結局のところウィンウィンで、はじめが高校に上がるまでの九年間、夏になるとはじめは伊佐に住んでいた。
 窮屈な制服に身を包んで、満員電車に揺られてエリートばかりが集う私立小学校に通っていたはじめにとって、夏休みの一ヶ月半は何にも変えがたい、のびのびとした時間だった。
 威圧的なコンクリートジャングルも、苦しい電車通学も、激しい点数争いも、いちいち細かい校則も、伊佐にはなかった。
 代わりに響くのは蝉の声で、広がるのは澄み切った青い空だった。普段のセカセカとした雰囲気も取り払われて、はじめは伊佐にいる間は心の底から笑えたのだった。
 夏の間だけ、現れる少年を近所の人たちは暖かく迎え入れてくれた。
「あれ〜、もうはじめちゃんが来るような頃になったけ。また背ぇ伸びたなぁ」
 祖父の顔が広かったこともあり、はじめ少年は夏の間どこへ行っても頭を撫でくりまわされることに決まっていた。
 
「そうやったわぁ、あんころはまだこんくらいでな」
 神主が地面から50センチくらいのところに手のひらを置いて、笑う。
「そこまで小さくはないですよ」
 舞田も釣られて笑う。今度は愛想笑いでもないみたいだ。表情をほころばせている。
「ここの神社でもよく遊んで叱られました。懐かしいです」
 舞田は、郷愁を感じさせる眼差しで、緋色の建物や、苔むした岩、石造りの鳥居をぐるうりと見回した。
「はじめ君はまだ大人しかったわぁ。あんたのお父さんのがよっぽど悪ガキじゃったわ」
「いやぁ、体力なかっただけですよ」
 神主が豪快にガハハ、と笑い舞田の背中を思い切り叩く。痛そうな顔を一瞬したものの、愛想笑いは崩さない。
今も昔も体力がなかったんだな、と美沙はぼんやり思う。小さい頃の舞田はどんな子供だったんだろうかと、ふと思いを巡らす。
神主が突如思い出したかのように問いかける。
「ハルと仲よかったよなぁ、そういや、ハルは今どこで何しよんのけ」
 空気が瞬間固まる。ハル、どこかで聞いたことがある。どこで聞いたっけ。
「さぁ、あいつも自由ですからよく知らないです」
 舞田は表情を硬くして答える。美沙は思い出した。『はじめの肖像画』あれのサインに、ハルって書いてあった。
「そうな。はじめの家住んどったっち聞いとったが」
「とっくの昔に出て行きましたよ」
 怒ったような低い声とは裏腹に、舞田が沈痛な面持ちを浮かべる。何かあったのだ、と美沙でもわかった。神主は戸惑いながらも微笑む。
「まぁ、どこかでまた会えらぁね」
 小さい子供にするように、優しく背中をさする。ぎゅっと唇をかみしめて、強く頷く。舞田と「ハル」という人物の間に何が起こったのか、美沙は詳しくはわからない。だとしてもあの辛そうな顔から察するに、あまり楽しい思い出ではなかったのだろう。
 しばらく沈黙が続く。苦しそうな顔は次第に泣き顔に近くなっていく。遠目から見てた美沙が、泣いてしまうのではないかとハラハラしていると、同じく緊張していたらしい神主が会話を切り上げる。
「じゃあ、ちょいとせにゃならんことがあるけんね、描き終わったらまた教えてくれな」
 神主は気まずさから逃げるように、手をひらひらとかざして社務所の方へと歩いて行った。取り残された舞田は、首を回した。それはホッとしたようにも、落胆したようにも見えた。
 舞田は小さく息をつくと、背負っていた黒のシンプルなリュックサックから生徒が持っているものの半分の大きさのスケッチブックを取り出した。表紙には水彩絵の具のシミが付いて、紙もよれている。随分と使い込まれているようだ。
背中をさすりながら周りを見渡した舞田と目があった。薄く微笑み、近づいてくる。
「お隣、いいですか?」
 美沙が頷くと、舞田は腰を下ろしてページをめくった。尖った鉛筆を取り出して、勢いよく、でも確実にパースをとっていく。
 シャッシャッという鉛筆が紙を滑る音が耳に心地よい。
 鮮やかな技術に気を取られながら、美沙はいよいよ引っかかっていたことを言葉にする。
「……先生」
 美沙が消え入りそうな声で呼びかけると、舞田は顔だけを向けて、はい?と応えた。
「ハルさんって人、あのスケッチブックのモデルですか」
 問いかけに、舞田は口を閉じた。鉛筆を膝の上に置き、スケッチブックを畳んでしまった。ふー、と長く息を吐いて、目を閉じる。
怒らせてしまっただろうか、と美沙は焦って仕方がない。やっぱり聞かないでおけばよかったかもしれない。
先生はお兄さんだと言っていたのに。嘘を暴く必要なんでなかったんだ。どうしよう。でも、どうしたら……
美沙が脳内で百面相していると、舞田が美沙の方へと向き直った。
「山元さんは、カンが鋭いんですね」
 どこか寂しそうな瞳をした舞田が、噛みしめるようにこぼす。
 美沙がどう返事をしたらいいかわからないまま、黙ったままでいると、舞田は勝手に続きを話し出す。
「ここからは私の思い出話です。聞きたくなければ聞かなくてもいいです」
舞田が今まで見た中で一番真剣な表情をしていたから、美沙も応えるように真剣な顔で首を横に振った。聞きたくないはずがない。
「ハル、梶井春樹は、伊佐で一番の友人でした」
舞田は思い出すように空を見上げた。丹塗りのお社の間から新緑の緑が眩しくひかる。目に痛いくらいに太陽が照っている。
「一人っ子だった私にとって、四歳年上だったハルは兄のようでもありました」
 伊佐で育った、ハルさん。あの絵の中のハルさん。美沙は頭の中で「はじめ」とハルが遊んでいる風景を想像した。
「私の祖父とハルのおじいさんが同僚だったんです。小学校の校長先生と、図画工作の先生で。定年後も仲が良くて……」
 舞田は先ほどとは打って変わって、どこまでも穏やかな微笑みをたたえていた。楽しかった少年時代をゆったりと反芻しているようだった。
「おじいさん、ハルのおじいさんに、夏休み絵を習いに行ってました。ハルとお互いの似顔絵を描いたのがとても楽しくて……それがいまの私の原点です」
 さあっと初夏の風が吹いた。重苦しい舞田の髪を風がさらりとはね上げていく。心地よい風に身を預ける。伊佐で過ごした夏の思い出は舞田の宝物になっているのだろう。
「ハルは、東京の大学に進学しました。その時に、私の家に来て一緒に住んでいたんです。居候ってやつですね」
 舞田の笑みに少しずつ苦味が混じっていく。
スケッチブックに描き止められるデッサンの量が突然増えた時期は、居候のタイミングだったのだ。冷蔵庫を漁ったりしているシーンも、一緒に過ごしていたら見ることも多いだろう。途端にデッサンに日常の匂いがこもり出した理由に、美沙は納得した。
 それと同時に最後の一冊、美沙は頭の中で「裸の一冊」と呼んでいたが、裸の一冊がどういう経緯で描かれたのかが気になって仕方がない。居候をモデルに事後の絵なんて描くだろうか。
 そんな美沙の思惑を知ってかしらずか、舞田は淡々と進める。
「大学卒業とともに、舞田の家を出て行きました。今あいつがどこで何しているのかも、全くわかりません」
 最後の一文を吐き捨てるように言うと、舞田は明らかに無理をしているとわかる笑みを作った。表情や体裁を整えるのが、壊滅的に下手だ。
「さて、昔話はおしまいです。はやく描かないと間に合いませんよ」
 舞田に指差されたスケッチブックは、まだまだ真っ白なままだ。結局ここに来てからまともに手が動いていない。美術部が活躍できる年に一度のチャンス、無駄にするわけにはいかない。美沙は鉛筆を握り直す。
 そう頭ではわかっているものの、まともに描くことができない。狛犬は左右で大きさが大きく違うし、模様も随分と陳腐になってしまっている。しめ縄はタコ糸みたいに貧弱に見える。
 どうしても他のことが気になって仕方がなくて、絵に集中できない。隣にいる舞田に質問したくてたまらないのだ。
先生はハルさんのこと、好きだったんですか、と。
 裸の一冊は、ただの仲のいい居候相手に生まれるようなものではない。あれは、単なるデッサンとは違った。
 著名な画家の画集で見るような、裸婦像に近いものがある。美しい恋人を美しい姿で残したい、と言う強い欲望、覚えたての言葉で言えば、リビドーのようなものを感じたのだ。モデルも、描かれることを意識している。画家、ここで言えば舞田に見られている、とわかって表情を作っている。甘く蕩けて、やわらかく、愛しくて仕方がないと言うような、世界でただ一人心を許している人にだけ見せる、一番魅力的な顔つきをしていた。
 そんな顔をしてくれる人と、美沙はまだ出会えていない。だが、きっと最愛の人に見せる顔がこう言うものだと本能的に感じ取った。それほどに魅力的だった。たった一度しか目にしていないと言うのに、脳に刻み込まれたかのように今でも鮮明に思い出すことができる。
 デッサンをしていた当時、ハルが舞田のことを愛していたのは画面から伝わって来た。
 舞田が今ハルに対してどう言う気持ちを持っているのかはわからないとしても、何も執着がなければあの山のようなデッサンは生まれるはずもない。少なくとも、恋情とは言えなくても激しい執着があったのは事実だ。
 好きだったのか、聞けないままに日暮れを迎えてしまった。結局出来上がったのは、去年の出来栄えよりも格段に劣る出来損ないだ。加奈子に見られるのが嫌だなぁ、と思いつつも、仕方がないのでスケッチブックを閉じて閉じ紐を結ぶ。
 全員の点呼が終わり、バスに乗り込む。出来上がり見にいくわぁ、と神主が柔らかな声で告げる。
 夕日の中を、小型バスが走り始めた。学校に戻る道中はなんだか気だるい。うとうとと夢の世界に誘われている者もいる。
 舞田と美沙は、通路を挟んで隣の席に座っていた。美沙は結局聞けずじまいだった。尋ねることが訳もなくだんだんと恐ろしく感じられて来たからだった。
 ああ、好きだった、とも、好きじゃなかったとも言って欲しくはなかった。尋ねなければ正解はない。
 できの悪いテストの採点をしたがらないみたいに、美沙は必死の思いで湧き上がってくる疑問に蓋をした。舞田が、ハルにどんな感情を持っていたのか、そしていま持っているのか。知りたいようで知りたくなかった。
 今日知ったことは、ルイにも、加奈子にも、誰にも話さないでおこう。
 美沙は舞田のデッサンを通してしか知らない、「梶井春樹」という男にとてつもなく惹かれていた。 
 

《水無月》

忘れ物を届けてくれと母から電話がかかってきたのは、梅雨が鬱陶しい土曜日のことだった。コンクールに出す一枚を仕上げるために、学校に行っていた日のことだ。お昼前に家に帰ってきて、録画していた深夜アニメを眺めながら母が作った冷めた焼きそばを食べていると、家の固定電話に着信が入った。
「美沙、あんた今なんしよんね」
「家帰って昼ごはん食べとるんやが、どしたん」
「今日提出せないかん書類あったんの忘れとって、届けにきてん」
 振り返るとリビングの机の上に茶封筒が置いてあった。こんなにわかりやすいところに置いているのに忘れたのか。忘れっぽいところは美沙も同じなのでそこは突っ込まず、不満を口にする。午後から本格的に雨が降るらしくて、家に帰る頃にはもうパラパラ降っていたのだ。
「え〜」
 外は雨が降っている。制服から部屋着に着替えていた。てろんてろんのTシャツで外に出たくはなかった。溜まっていた録画を消化しようと思っていたのに。明らかに不服を伝える声で答えると、電話越しの母がため息をついた。
「来てくれたらダッツでもゼリーでもなんでも買うちゃるけん。はよおいで」
「はーい」
 食べ物につられて、美沙は洗濯物の山の一番上に積まれていたジャージに着替えて家を出た。
 幸い雨は大して降ってなくて、むしろ落ち着くくらいだ。
 家から出て三つ目の角を左に曲がり、そこからまっすぐ二キロほど歩いたところが母の職場だった。さくら園の看板が見える。春には綺麗な桜が咲く、老人ホームだ。
 今日は雨だから、いつもは庭で日向ぼっこしているおじいちゃんたちの姿が見えない。小さい頃から何かと連れてこられていた美沙は、ここに限ってちょっとしたアイドル扱いを受けていた。庭でおじいちゃんたちに声をかけると、それだけで手に小銭を握らせてくれるから、美沙にとってはちょうどいい小遣い稼ぎだった。
「はぁ……」
 小雨だからいるかもしれないと少し期待をしていたのに、と美沙は落胆する。
 傘をたたんで玄関をくぐり、受付に向かうと、先客がいた。見たことがある後ろ姿、学校でしょっちゅう見ていた姿だった。
「先生」
 後ろから声をかけると、舞田がゆっくりと振り返った。
「山元さん、こんにちは」
舞田に挨拶され、美沙は軽く会釈をする。両手には洋服やら日用品やらが入った紙袋を下げている。家族がここにいるんだ、と瞬時に理解した。きっと、前話してくれたおじいさんが。
「おじいさんとかがこちらにいらっしゃるのかな」
 特段焦るわけでもなく、学校にいるときと変わらない。いつもと違うところはカジュアルな服装をしていることだった。くすんだカーキのカットソーに、デニム。地味な色の服を身につけた舞田は、陰気臭い性質が一層際立っているように見えた。
「いえ、母の忘れ物です」
そう言って老人ホームのロゴが入った茶封筒を取り出して、事務のおばちゃんに渡す。定年間近のベテランで、昔から可愛がってもらっていた。
「はい、美沙ちゃん。預かりました。偉いね。これ持っていきな」
 手元にあったチョコレートクッキーの小袋を三つ渡してくれた。幾つになっても子供扱いだ。赤とクリーム色のパッケージに包まれた商品は、美沙が小学校低学年の頃、貰って喜んでみせてからしょっちゅうくれるようになった。本当はそこまで好きじゃないことを、今さら言えず、できる限りの笑顔を作ってみせるのが常だった。
 嬉しそうに見えるように笑って、アニメのDVDの特典だったぺらぺらのトートバッグにしまう。やるべきことは済ませてしまった。早く帰って、好きなアニメの続きが見たい。先週敵キャラが出て来て、いいところで終わっていたのだ。気が急いて仕方がない。足は自然と玄関の方へと向かって行った。
「じゃあ、先生、また来週」
「ちょっと待ってくれませんか」
 さようなら、を言う前に舞田に遮られた。世間話か、苦労話か。ここに来ると、いつもどうでもいい話に巻き込まれる。大人にとっては大事らしいが、美沙の中では優先順位はうんと低かった。急いで帰ろうとしていたので少しだけ苛立ったが舞田の言葉は予想外のものだった。
「山元さんはこれから帰るんですか。よかったら送りますよ、車ですし」
 突然の申し出に戸惑っていると、美沙の返答も聞かずに舞田は待っているように告げて、部屋の方へ向かって行ってしまった。まあ、雨の中歩いて帰るのも嫌だし、ちょうどよかった、と入り口のソファに腰掛ける。
 チョコクッキーを一枚食べ終えた頃に、舞田は八十歳くらいの男性を乗せた車椅子を押しながら戻って来た。頭にはもうほとんど毛が残っていない。目はうっすらとしか開かれていなくて、寝ているみたいに見えた。
「お待たせしました。山元さん、行きましょうか」
「そちらの人って……」
 美沙が尋ねると、舞田はうっかりしていた、と呟き、祖父ですと教えてくれた。
「じいちゃん、山元さん、俺の教え子なんよー」
 優しく笑いながら、しゃがんで祖父の耳元に大きな声で吹き込む。祖父は聞いているのかよく分からないそぶりで、うんうんと頷いている。
 先生としての舞田とは違う、面倒見のいい孫としての舞田は穏やかに見えた。
「それじゃあ行きましょうか」
 雨は本降りになっていた。

 黒い軽自動車に乗って、揺れながら道を進む。舞田の祖父は助手席に乗り、美沙が後部座席に座った。案外舞田の運転が上手なのに美沙は驚いた。こなれていて、安全運転だ。
 舞田の祖父は窓の外を見ながら、小さな声で童謡を歌っていた。
「雨降―り、お月さーん、雲のぉかーげぇ……」
 ざあざあと降っている雨を楽しそうに眺めている。その瞳は少年のものと似ていた。きらきらと輝く表情で、美沙は舞田の置かれている状況を把握した。舞田の祖父は、認知症を患っている。母の仕事上、そうなった老人たちを数え切れないほど見てきた。童心にかえったおじいちゃん、おばあちゃんたちに、家族は疲労していくのだった。
 神社で聞いた話からすると、家には舞田と祖父の二人しかいない。あそこの園は、長い間満室で新しい人はデイサービスしか受け入れてないと母から聞いた。朝仕事の前にこっちに送って、夕方部活帰りに迎えに来てるんだ。美術部が他の部活よりも早く終わる理由を、舞田は「こちらの都合」だとしか言っていなかったが、デイサービスの刻限に間に合うためだったんだろう。
 舞田が憂鬱そうに見えるのは原来の性格だけじゃないのだと、美沙はこの時知った。母の愚痴が夕飯時の通例になっているからわかる。一人で抱え込めるほど易しいことじゃない。
 体力がないと思っていたが、慣れない介護に疲れていたのも大きいんだろう。
「にいちゃん。雨がいっぱい降っとるなぁ」
 舞田の祖父が底抜けに明るく、朗らかに笑う。
「そうだね、健ちゃん」
 健ちゃんと呼ばれた祖父は嬉しそうにうんうんと頷いて、またおでこをガラスにぴったりとくっつけて外を眺める。次はカエルの合唱を歌い始めた。信号で止まり、舞田が振り返る。
「山元さんのご自宅はこちらの方であっていますか?」
「は、はい!」
 突然に声をかけられて、美沙は裏返った声で返事をした。
「農林高校の近くです、なので、ここをまっすぐ行ってもらえば……」
「わかりました。家の近くになったらまた教えてください。この車古いんでカーナビついてないんです」
 見るからにおんぼろな車は、もともと祖父のものだと舞田は話す。カーブに入り、ぐうっと車体が左に傾く。体が倒れて、額を窓に押し付けていた舞田の祖父がぎゃあっと悲鳴をあげた。
「にいちゃん痛い」
 駄々をこねて喚くように言って、ぼろぼろと泣き始めた。舞田は焦る様子も見せず、路肩に車を止めて鞄からタオルハンカチを取り出した。
「ごめんね健ちゃん。お家帰っておやつ食べようね」
 ポタポタ溢れる涙を孫に拭われながらも祖父は頷いて、手をぎゅっと丸めた。会話だけを聞いていると本当に小さい子供と兄のようで、美沙はどうしたらいいかわからなくなった。
「ごめんなさい、山元さん、一度家に寄ってからでもいいですか」
 振り向いてきて舞田が美沙に質問という形式で承諾をとった。美沙も、この状況で美沙の家まで保つとは思わなかったので、頷いた。
舞田の家も気になるし、美沙にとってもちょうどよかった。舞田はUターンして、元来た道を進み始めた。

 美沙の家とは反対方面の、大きな平屋の一軒家が舞田の家だった。別校区だから来たことはなかったが、男二人暮らしにはどう考えても広すぎる場所だった。
 車を止めた舞田は手慣れた様子でトランクから車椅子を取り出し、祖父を乗せて家に入って行った。しばらくすると、家から出てきて車の扉を開けた。
「車の中も蒸し暑いでしょう。もう少し時間がかかりそうなので、嫌でなければ家の中へどうぞ」
 舞田への好奇心から、美沙はありがたく申し出を受け入れることにした。古き良き日本家屋を所々バリアフリー仕様に工事してある。黄ばんだ漆喰の壁に真新しい手すりがちぐはぐに映る。
「ここで待っていてください。テレビとか見たければご自由に」
 畳にこげ茶のカーペットが敷かれた居間に通された。ちゃぶ台と座布団、そしてテレビだけの簡素な部屋だ。この時間帯のテレビは、つまらないワイドショーしかしていないので、周りを見渡しながら時間を潰すことにした。舞田の家は、物がないのに生活感の匂いが染み付いている。詳しくいえば、線香の匂いが染み付いている。家のどこかに仏壇があるんだろう。
廊下をゆっくりと歩く音が聞こえる。祖父を支えて、ゆっくり、ゆっくり歩いていく舞田の姿が襖から見えた。汗をじんわりとかきながら舞田は進んでいく。
「じいちゃん、気をつけてね」
 優しく声をかける。教師の時の気だるげな舞田とは違う雰囲気だった。生徒の前でもあれくらい笑えばもっと人気出るのに、と美沙は余計なお世話になりそうなことを考えた。だが、同時に家であれだけ笑顔を作っていたら学校で使う分のストックがなくなりそうだとも感じた。無理しているのは明らかだった。おそらく、学校での姿が舞田の素なのだろう。
 することもなく手持ち無沙汰で、美沙は壁を見回す。長年の経過で色が変化した壁には、所々色が薄いところがある。四角く、色を変えていた場所が天井に近い部分に、十箇所程度。
 遺影にしては大きい空白に、美沙は首を傾げた。何か貼ってあったのだろうが……
 壁の意味を見つけようと凝視していると、廊下の方から人のものではない足音が聞こえる。てとてと、と軽い音がした。不思議に思って襖を開けると、ぼってりと太った白い猫が歩いていた。古い家はどこかしら隙間があるもので、一度油断すれば動物やら虫やら蛇やらが勝手にお邪魔していることはよくある話だ。美沙も家の廊下でカエルと鉢合わせたのも一度や二度のことではない。多少驚きはしたものの、猫か、と思ってスルーしそうになった時、古い板張りの廊下に茶色い足跡が点々と残っているのに気がついた。
 猫様は厄介なことにも舞田家の庭、しかも雨でほとんど泥と化している庭、を経由してから家の中に上がってきたようで、靴下を履いたように足先を茶色に濡らしていた。
 人の家であっても、ベタベタと汚れていくのを放っておくわけにもいかず、美沙は猫の捕獲に乗り出した。廊下に出て後ろからそうっと近づく。足音を立てないように抜き足差し足、ゆっくり、ゆっくり……
 あとちょっとで手が届きそうなところで白猫がくるりと振り返って、ダッと走り出した。美沙も慌てて追いかける。猫は美沙をあざ笑うかのように廊下を駆けていく。重い体に反して身のこなしは軽く、ひらりひらりとかわし、捕まるものか、とでも言いたげであった。家の間取りを熟知しているらしい逃亡者は、あっという間に家の奥まで逃げ込んでしまった。
 扉が開いていた一番奥の部屋にひょいっと飛び込む。釣られて美沙も中へ足を踏み入れる。せめて部屋の中だけでも汚染を阻止しなくては。
 飛び込んだ部屋で、美沙は瞬く間に猫のことを忘れて立ち尽くした。
その部屋は、美術室の匂いがした。黒鉛と、水彩絵の具の匂い。古くなった紙の匂い。そして部屋の真ん中におかれている大きな油彩画の、鼻を刺激するシンナーのような油の匂い。
 それらが雨のしっとりとした匂いでまとめられて、一気にもわっと美沙の鼻腔を刺激した。床の板には、長い間かけて染み込んだであろう絵の具の染みが、いたるところに見られた。雑然とした雰囲気、あふれんばかりに置かれた絵画の数々、描きかけのパレットと絵筆。その様は美沙が憧れていた「アトリエ」にふさわしいものだった。胸が高鳴る。
部屋に置かれている学校のロッカーのような簡素な棚には、スケッチブックやキャンバス、画材が雑然と詰め込まれていた。およそ四畳と思われる小部屋が、美沙は王国のように見えた。
 猫は散らばっていたシャガールの画集を踏んづけて進む。黄色い画面に肉球のスタンプが押された。もっちりとした猫は、美沙が自分に対する興味を失っていることに気がついたのか、イーゼルの下で丸まって、居眠りを始めた。茶色い足跡がわからなくなるほど、床は鮮やかに変色していた。
 部屋の中で一番存在感を放っていた油彩画に美沙は引き寄せられていった。油絵の具は高くて、まだ買ってもらっていない。美術館以外で見るのは初めてだった。制作途中のものということだったら、生まれて初めてだった。
 美沙の肘から指先くらいまでの幅をした正方形のキャンバスには、部屋が描かれていた。小さな部屋の半分を占めるような大きなベッド。そこに一つの枕が置かれている。カーテンは光が見えないようにきっちりと閉められていて、画面は暗い。深い青い色調で描かれていて、ピカソの青の時代を思い出した。どうってことないよくあるワンルームの部屋なのに、悲しい。苦しい。見ているだけで陰鬱な気分になる作品だった。
 もっとよく見ようと右手を伸ばした。指先がキャンバスに触れて、とっさに指を引っ込めた。人差し指の先に青い絵の具がべっとりと付いてしまった。油絵は乾くのが遅いんだった。知識としては知っていたのに、美沙は自分の失敗に背筋を震わせた。
 幸い絵が変わったようには見えなかったため、付いた絵の具を床の汚れに紛らわせるように擦り付けた。白猫が一連の流れをじいっと見つめていて、後ろめたさが美沙を襲う。
 告げ口しないのはわかっているが、唇に人差し指を当てて白猫にしいっとつぶやく。
「何が内緒なんですか?」
 面白そうな顔をした舞田がそこに立っていた。美沙が慌てていると、部屋に入ってきて白猫を抱き上げる。動物とは思えないほどに縦に伸びた白猫が不服そうに小さくにゃあと鳴く。舞田が白猫を左右に揺らしながら柔らかな声で問いかける。
「おもちさんまたここ来てたの。カラフルになっちゃうよ」
 おもちと呼ばれた白猫は、返事をするように、にゃあと鳴いた。舞田が、手に持っていた濡れ雑巾でおもちの足を拭いていくと、おもちは不服そうな顔で受け入れる。一通り綺麗になると、舞田はおもちを床におろした。おもちは風が吹いたように、またあっという間にいなくなってしまった。
「廊下の方でドタバタしてるから何かと思いましたが、おもちさんだったんですね。ご迷惑おかけしました」
「いえ……」
 勝手に部屋に入ってしまったのを咎められなかったことに、とりあえず安心した。指先に残る青い色が美沙を申し訳なくさせる。
「飼ってるんですか?」
「おもちさんですか?ええ。東京の家から連れて来たんですよ、よく伸びるからおもちさん。そのまんまでしょう。ネーミングセンスが安易なんだ……」
 舞田はそういうと切なげに笑う。視線はキャンバスに向かう。絵の具が取れていることに、舞田は気がついていないのか、黙ったまま見つめている。
「僕のアトリエなんです、ここ。小さい頃から…… スケッチブックは棚に入らなくなって学校に持って行ってしまって」
 深い青のキャンバスを一点に見つめながら細い声で舞田は話した。じっと何かを考え込んでいるようで、怖いくらいに真剣な眼差しだった。美沙は長い沈黙に耐えかねて、問いかける。
「おじいさんは大丈夫ですか?」
 舞田は振り返って、無理して笑みを作った。
「少し気持ちが高ぶっていたので時間がかかったんですが、寝たので大丈夫です。お待たせしましたね、送ります」
 舞田に玄関で待っているように言われて、居間からトートバッグを取り、スニーカーを履いて待っていると、おもちが隣にやって来た。
 甘えるように鳴いてすり寄って来たので頭を撫でてやる。喉をゴロゴロ鳴らすおもちをてがっていると、車の鍵を指に引っ掛けた舞田がやって来た。
「お待たせしました。行きましょうか」

 家の方へと車は走る。助手席から見る舞田は、眼鏡を掛けていた。まだ雨はやまない。すでに歩いて帰ったほうが早かった時間になっていた。
「そうだ山元さん、一応ですが、今日のことはあまりいろいろな方には話さないようにお願いしますね」
 信号待ちで、左を向いた舞田が思い出したように箝口令を敷いた。まあ、特定の生徒を贔屓していると思われるのは面倒臭いのだろう。美沙はとりあえず頷いた。
 黙ったままでいるのも気まずいので、気になっていたことを尋ねた。
「あの、テレビあった部屋って、前何か貼ってたんですか」
 舞田は、一瞬首を傾げてから答える。
「あれですか、私の絵が貼ってあったんですよ。描いた絵を祖父母が飾ってくれていて。今は気恥ずかしくて剥がしちゃいましたけど」
 ゆったりとした口調で話す。舞田の声は雨みたいだ。激しくなると怖いけれど、普段は穏やかに包み込んでくれるようなやわらかさを持っている。
 おじいさんたちに可愛がられて来たのだろう。伊佐での昔話をするとき、舞田は風にそよがれている時のような爽やかで心地いい表情を見せる。
 やわらかな表情に、美沙は油断した。
「ハルさんの似顔絵も飾ってたんですか?」
 舞田は強くハンドルを握り、唇を噛み締めた。じっと黙った後に、飾ってませんでした、とだけ呟いた。
 車内に重苦しい雰囲気が漂う。息苦しさが美沙を襲う。やってしまった、と俯いていると、舞田が付け足す。
「……ハルのこと、気になりますか?」
 舞田の問いに美沙は黙って頷く。知りたい、と強く思っている。
「あんなこと言ったらまあ、そうなりますよね」
 舞田がハンドルをきる。カーブの遠心力で、体が運転席の方へと傾く。
「これは私の勝手なんですが……あまりハルの話をしないでくれますか。辛いことがあったので、思い出したくないんです……」
 まっすぐ前を見つめる舞田の瞳はうっすら潤んでいるようで、美術室で初めて見た時のように小さく見えた。
 やめろと言われて好奇心が消えるわけではないが、人の嫌がることをしようと思うほど美沙はひどい人間ではなかった。

《文月》

 
 バスを一度乗り継いで美沙がたどり着いたのは、古びた画材屋だった。年に一度の誕生日プレゼントに油絵セットを選んだのだった。本当はデパートにあるような高いものが欲しかったのだけれども、予算外、と一喝されて渋々やってきたのだった。
 よく言えばレトロ、悪く言えばボロなその店には看板がかかっていたが、色褪せてまともに読むことができない。木でできた重い引き戸を右から左へ。
 店内に入るとラジオが今日の天気を告げていた。明日は晴れのち曇りだそうだ。ぐるっと見渡すが店主がいない。この店は美術部の画材を買うのにも月に一度ほど訪れているので、店主の不在にはもうとっくに慣れっこだ。買う前に呼べばいいや、と思い、いつもは眺めるだけだった油絵コーナーを物色する。
 予算は両親と祖父母からせしめた誕生日のお祝い、諭吉一枚だ。皺一つないピン札が、パステルブルーの財布の中で出番を待っている。
 油彩を始めるのに一万円は余裕がある方ではないことを美沙は初めて知った。絵の具があればいいわけではない。絵の具を溶く油、筆を洗うための特別な液体、専用の筆とパレット、それからキャンバス。頭が痛いことに、これらすべてが消耗品ときているからいくらあっても足りないのだ。
 そのため美沙は慎重だった。画材をケチると、絵自体もどこかケチくさくなる。一万円で最大のコストパフォーマンスを発揮することが今日の美沙のミッションだ。
 必要最低限買わなければいけないものはどれか、代用できるものはないか、筆はどの細さのものを買えばいいのか、平筆か丸筆か、一つ一つを手に取り、値札を見比べながら必死の形相で吟味していく。
 油絵に漠然とした憧れを持っていた美沙が、漫画の特装版やアニメのブルーレイボックスを我慢してまで油絵をチョイスしたのは間違いなく舞田の絵を見たからだった。こういう絵を描きたい、と思ったのだ。うまく言葉にすることができない感情が美沙の中で渦巻いていた。憧れとも尊敬とも違う。ただ惹きつけられたのだった。
 下の段に並べられていた二本の平筆と手に、豚毛と馬毛って何が違うのか頭をひねっている時に、急に肩に手を置かれて美沙はパニック映画のヒロインよろしく、大きな悲鳴をあげた。
「おぉ、でけえ声」
 驚かせてきたのはここの店主のおじいさんだった。七十過ぎの白髪頭の人物は、滅多に人が来ないのをいいことに、日頃は扉一枚隔てた小部屋で昼寝するか競馬を見るかしていて、たまに店に出るかと思うと来る人にちょっかいをかけるという、なかなかに面倒臭い男なのだ。
「とうとう油絵か!」 
 さっきのショックで声が出ない美沙は、小さく頷いた。よっこいしょ、と典型的な年寄りの掛け声を出しながら横にしゃがんだ店主は、予算は? とだけ聞いた。美沙がかすれる声で一万円、とだけ答えると少し考えて買い物かごを取ってきた。
「初心者が見繕うんは大変やけん。おじさんスペシャルチョイスで」
 おじさんと自称するにはずいぶん歳がいきすぎている、と美沙は思うが、プロに選んでもらう方が安心だ。
「アクリルやったことは」
「……ある」
「おっしゃ」
筆やキャンバスを手にとって確認しては籠の中に放り込んで行く。あまりにも勢いがいいので、美沙は値段をすぐに越してしまうにではないかと肝を冷やした。何年か前に潰れたスーパーからもらってきたというそのかごは五分も経たないうちにほとんど埋まってしまった。
 だが肝心の絵の具が入っていない。筆とキャンバスがあっても何も描くことは出来ない。ボケてしまったのだろうか、と不安に感じていると店主はポケットからシルバーのシニア携帯電話を取り出して、おもむろに電話をかけた。
「千秋、おう、今ひまか。家に使うとらん油絵のセットあるやろ、そう、一階の物置ん中よ。取ってきてくれんか。ええが、はよう。わかったけ、帰ったらする、はいはい、ったくいつもせからしか」
 店主は文句を言いながら携帯を二つに畳むと、かごを持ってレジのところへ向かった。
 美沙が慌ててレジの前に行くと、もうすでにバーコードを読み取り始めていた。気が早い。
「いってーん、にてーん……」
 明らかにやる気のない声で商品を数え上げていく。もうすっかり店主のペースに乗せられている。十数点あまりの品物が積み上げられていく。
「はーい、百万円」
 おきまりのつまらないギャグを決めたところで、美沙から一万円を受け取り、百円玉三枚を返した。
 お次に手渡されたレシートには、ちょこちょこと値引きやら割引の文字が見えた。おまけしてくれたのだろう。
「時間あるか」の質問に美沙は首を縦に振ってイエスの意思表示をした。今日は帰って宿題をするだけだ。そう答えると、じゃあこっちで待っとれな、と扉を開き、六畳の和室へと通された。
「ちょいと前に孫に用意した絵の具があったんだがな、絵に興味がねえって使わずじまいなんよ。古くてもよけりゃそれやる」
 普通そういうことは会計の前に言わないか、という言葉は飲み込んで、ありがとうございます。とだけ伝えた。
 実際、ただで絵の具をもらえるのはとても助かるので多少古かろうが問題はない。描ければいいのだ。
「そいや、油絵描く子なんて珍しいなぁ。あんたどこで描くん。中央の美術部の子やろ。刈谷せんせはデッサンばっかさせるんで有名やったけど、お許しでたんか」
 そうだったのだ。カーリーは基本ができていないのに色を使うなんて、との方針で絵筆を持たせてもらえなかった。去年はは灰色、詳しくいえば4Bの鉛筆色の一年間だった。
「刈谷先生は退職しました」
「そうね、今誰なん?」
 愉快そうな顔で店主が聞く。カーリーと店主はあまり反りが合わなかったから、嬉しいのもあるのだろう。
「舞田先生です」
 名前を告げた途端、店主は目を見張った。明らかに動揺して、店主が持っていたレジ袋がひらりと舞って落ちた。
「舞田って、舞田はじめなんか……」
 店主の口から担任の名前が出てきたことに美沙は驚いた。美術の授業の発注関連で名前を知っていることはありえるが、そういう雰囲気でもない。
 戸惑いと喜びと懐疑が入り混じった複雑な表情を浮かべる。
「お知り合いなんですか?」
 尋ねると店主は皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにして泣きそうな笑顔を浮かべた。
「知ってるも何も、俺があいつの絵の師匠よ……」

 店主は熱い緑茶を机に置いて、これでも食えや、と大袋の醤油煎餅を投げてよこした。
 それだけ告げて、外へ繋がる扉をガラガラと開けて出て行ってしまった。マイペースな店主に振り回された美沙はとりあえず買った画材を確かめるように袋から取り出す。紺色で店の名前だけが印字された茶色の紙袋からひとつひとつ取り出して目の前にかざしてゆっくりと眺める。豚毛の筆、プラスチックのパレット、筆洗油…… 長い間誰にも手に取られなかったからラベルの色が褪せていたものもあったが、むしろレトロでおしゃれだと感じた。美沙にとって、生まれて初めての自分の油絵道具だ。何よりの宝物だった。
 一通り確かめ終わると、紙袋の口をくるくると丸めて、横に置いた。煎餅をひとくち齧り、咀嚼していると、レジ裏と繋がる扉が勢いよく開けられた。
「じいちゃーん、あれ、いない」
 ガラス戸から顔を覗かせたのは、三十手前の女性だった。ネイビーのポロシャツにデニムジーンズを纏い、茶色い髪を後ろに一つでまとめている。まさに馬の尻尾、といった風体だった。
「あ、こんにちは。お客さんよね?おじいちゃん知らない?ここの店の」
 美沙が答える前に、店主が戻ってきた。
「おう、千秋、ありがとありがと。どうせならお前も見ていけや」
 店主の手には、モスグリーンの分厚いアルバムが握られていた。表面に貼られたプラスチックのカバーが黄色く変色している。
「それ懐かしい〜。あんま時間ないんやけどいっか。あとこれ、頼まれてたの」
 女性は地元のスーパーのレジ袋を、美沙に手渡した。ずしっとした重さが手に伝わる。中を伺うと、油絵の具の箱が入っていた。
「これ……!」
「私の弟の。使ってないからほとんど新品。名前だけシールか何か貼っておいて。あ、名乗ってなかった。梶井千秋って言います、よろしくね」
「山元美沙です。ありがとうございます」
 千秋に対して、美沙は深々と頭を下げて、絵の具箱をぎゅっと抱きしめた。独特の油と絵の具の匂いがツンと鼻を刺した。
 店主は美沙の正面に腰を下ろして、アルバムを開いた。
「はー君、あ、はじめのことな。はー君はな、俺の同僚の孫やったんよ」
 店主が楽しそうに語り始めた。店主は昔小学校の図工の先生をしていて、その時校長をしていた舞田の祖父に随分と可愛がってもらっていたという。千秋も店主の横にあぐらをかいてどっかりと座る。
「退職してから、もうちょっと腰が丈夫やった頃はな、ここで、この部屋でお絵かき教室とかしよったんよ。はー君も夏休みのときは来よってな。一番上手やったよなあ」
 問いかけられた千秋が楽しそうに頷く。
「四つも上なんに、ハルの方がずっと下手やったぁ」
 やっぱり。美沙は心の中で思う。この人たちはハルさんの家族だ。ハルさんのお姉さんの千秋さんと、おじいさんだ。美沙は一層食い入るように話を聞く。
「うまかったけん、絵描く仕事つけー、って言いよったんやけどな。あそこの親厳しかったらしいけんな。それなりに安定した仕事ついたんな」
「え、はー君何の仕事ついたん、何でじーちゃん知っとん」
「やっぱ千秋も知らんかったんか。中央中の美術ん先生なったんやと。この子の顧問しよるんやと。なあ」
 美沙は首肯する。お世話になったらしいこの家の人たちに舞田は全く報告しなかったのだろうか。この様子だと、伊佐に来たことすら教えてなかったようだ。
「えーそうなん。伊佐にきよるん。教えてくれたらよかったのに……」
 千秋はそういうと頭をぽりぽりと掻いて、唇をかみしめて俯いた。深くため息をつくと、暗くなった顔を無理に明るくして、アルバムを見よう!と美沙に笑いかけた。
「私と、ハルと、はー君と。いっつも一緒におったんよ。これが最初にきたときの写真。あん時は、はー君がめっちゃ泣いてね」
 この画材店の前で小学校の頃の三人が並んで写っていた。真っ赤なキャミワンピースを着たおしゃまなお姉さんが千秋さん。千秋さんよりも背が高くて、半ズボンから見える足が絆創膏とかさぶたでいっぱいな弾けそうな笑顔の少年がハルさん。絵で何度も見た顔だが、舞田の絵の腕は確かなんだろう。そっくりだ。
髪の毛と同じくらいに真っ黒な瞳を潤ませ、黒いTシャツの裾を握りしめて今にも泣きそうなのが舞田だろう。
「お母さんがおらんとこに急に一人で来て寂しかったんやろな。夏休みに田舎に連れてこられて、最初の頃泣いて泣いて困っとったらしいんよ。それで困った舞田のじいちゃんがうちに連れて来たんよね」
 店主が頷いて、アルバムのページを一枚めくる。スケッチブックを手にした舞田、はー君が尖らせた鉛筆片手に机の上に置かれたひまわりの一輪挿しを凝視していた。ちょうど美沙が今座っていたところに舞田が座っていたようだ。小さい頃の舞田がここにいるような不思議な気分になる。
「ここに来て、ハルたちと仲ようなってからは元気になっとったがな。絵描くんも好きやったみたいやし」
「そうねえ、ハルに懐いて懐いて。ハルもずっと弟が欲しいって言いよったけん、嬉しかったんやろ。はー君はずっと『はるー、はるー』って言って付いて行きよったし。なんていうんやっけ、刷り込み?あの鳥のやつみたいにさ。ずーっとついて来て、じーちゃん家に帰りたくないって泣いて舞田の家困らせてなぁ」
 えんえん泣いている小さいはー君と、人でも殺して来たのかと思いたくなるくらいに人相の悪い舞田が結びつかない。祖父に担がれて、荷物みたいに連れて帰られているはー君の写真は、暴れすぎてほとんど残像しか残っていなくて、美沙は思わず吹き出してしまった。
 千秋が懐かしがりながらページを向かっていく。絵を描いている写真が一番多かったが、縁側で並んでスイカを食べていたり、川に浸かっていたり。伊佐での夏をハルさんと並んで思う存分楽しんでいる舞田の姿があった。
 口を大きく開いて、楽しくて仕方がない、と言った表情をしていた。
 一人で写っている写真がほとんどない。常にハルさんの横に立っていたり、しがみついたりしていた。
 美沙はふと思い出したことを尋ねた。
「肖像画とか描いたりしたんですか?」
「なんね、見たことあるんけ」
 ただ頷いて返事をする。店主はそれならこれやろう、と言ってアルバムをめくり一枚のスナップ写真を指差した。
「あ……」
 そこには、体と同じくらいの大きさのスケッチブックを抱えたはー君と、同じスケッチブックを持って正面に座るハル君の姿があった。鉛筆の汚れがおでこにくっつくのではないかというくらいに顔を近づけて、真剣な眼差しでハルの肖像画を描いているはー君とは対照的に、ハル君は今にも眠りそうな寝ぼけ眼だ。
「ハルはじっとしてられん子でなぁ。はー君が『ハルの顔描きたい』って言っても虫取り網持ってどっか行ってしまいよってな」
「そうそう。けどはー君も見た目通り割と頑固やったもんね、あまりにもハル描きたい!ってうるさいから、私らで色々なだめて年に一度だけはハルをじっとさせてモデルにさしたんよねぇ」
 それで最初の方は年に一枚しか肖像画が増えてなかったんだ。美沙は納得した。
写真に写るハル君は静止画にも関わらず躍動的で、今にも走り出しそうに見えた。傷だらけの手足がやんちゃだったことを物語っている。
「年に一枚、帰る前の日にいっつも描いとってなあ。最後の方は泣いとったよ」
 どうして?と美沙が顔だけで尋ねる。
「描き終わったら帰らにゃいかんけんなぁ。あの子には都会やら競争やらが合わんやったんよ。ハルは東京をうらやましがっとったがねえ。逆の家に生まれたがよかったんかもしれん」
「ちょっとじいちゃん」
 千秋が肘で店主を小突く。店主はバツの悪そうな顔をして、黙ってしまった。
「ハルは大学に行くときに舞田の家にお世話になったんよ、美沙ちゃん知っとる?」
 頷く。境内で舞田に聞いたことがある。
「まぁ、なんというか、そこでいろいろあったみたいでね」
 千秋は苦みばしった表情で美沙に笑いかける。これ以上は詮索しないでくれ、と一線を引かれているようでもあったが、美沙は踏み込みたかった。
「いろいろ……?」
「私らもよう知らんの。あいつも滅多にこっちに戻って来んし」
 最後の方は吐き捨てるように千秋は告げた。ぼそぼそと、家のことなんやと思いよるん、と呟いた。その殺気立った表情に、美沙はそれ以上尋ねることが躊躇われた。
 大人には踏み込んではいけない領域があることを、舞田のスケッチブックの一件で思い知らされたからだ。線を引かれたら、やはりおとなしく従うべきなのかもしれない。
 無言が続く中、電子音が突如として響き渡る。千秋が慌ててスマートフォンを操作して電話に出る。
「はーい、千秋です、うん、ごめん。すぐ戻る。わかっとうって。はい、宅配もちゃんとするから、はーい。うん、じゃあね」
 画面を何度か触ると、千秋はすっくと立ち上がった。
「じーちゃん、そろそろ戻るわ。ばーちゃんによろしく。あ、そうだ」
 千秋がデニムジーンズのポケットをゴソゴソと漁る。車の鍵とレシートに紙くずが、次々と机の上に吐き出されて行く。
「千秋、お前もうちょっとちゃんとせんかー」
「ん。はい、美沙ちゃん。お父さんかお母さんにでもあげて」
 勢いよく突き出されたぐしゃぐしゃの黄色い紙は、酒の割引券だった。引き伸ばしてみると、大きく書かれた「祭」の一文字が目に飛び込んできた。
「夏まつり……」
 今度行われる夏まつり、千秋の職場兼実家であろう『梶井酒造』が店を出すらしい。そこでの割引券だった。丸っこいゴシック調のフォントで、酒類全品10%オフ!とデカデカと書かれている。
「そそ、それ出してくれたらちょっと安くなるから。ご贔屓さまだけに渡してるけど、まあ特別っていうことで」
 じゃあね、と元気に声を出して千秋は表に停めてあった白い軽トラに乗り込んで去っていった。ブロロロというエンジンの音が遠ざかる。
 店主は重たい腰を上げ、好きにしろーとだけ美沙に告げて店の方へと引っ込んでしまった。
 一人取り残された美沙は手に残されたしわくちゃの紙を指で丁寧に伸ばして、無くさないように油絵の具の箱の中にしまった。
 箱の内側には、達筆な文字で「梶井春樹」と名前が記されていた。

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