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思い返せばほとんど最初の記憶である2歳の頃から寂しく不自由だった、というあてで書き始めたはずが、思い出す端から、決して華やかではないけれど精一杯祖父母に大事にされたことを感じるとは幸せであると言うほかはない。海沿いの母の実家の方がずっと自分の家に近いのだが、そちらの祖父が末期の胃癌で入院中ということもあり幼児の面倒を見る余裕はなかった。そこへ行くと四人を育て上げた経験があり元々が子供好き、何より暇だろうという理由で北関東に任されたのは当時としては自然の成り行きだったに違いない。それにしても特別若くもなかった祖母が普段遠く離れている2歳の孫をみることは容易ではなかったはずだ。
預けられた頃は早い春だったのでまだ寒かったのだろう。夜、寝る前に薄暗い蛍光灯の下で、節くれだった指でテレビの前のニベアの青缶を取り、ほんの少量をいつまでも丁寧に塗り込んでいた祖母の手を思い出す。濁って筋ばった爪、短い指、太い関節、筋としわだらけの甲は働く女性の手であった。家事以外に近所に畑を借りてとうもろこしや茄子を育てていたので土いじりも常だったのだ。何日も前に貼られた膏薬の端がいつも僅かにめくれて、埃がこびりつくままになっている。今、当時の祖母の年齢に近くなった私の手を見ると、土こそついていないけれど節くれだった短い指が本当に似ていて驚いてしまう。そういえば自分は父にそっくりで、だから時折祖母にも似ていると言われたものだった。幸い背は祖母のように特別小さく終わることはなく普通サイズには育ったが、指の太さ短さ、決して優雅とはい言えない見目形は間違いなく祖母のそれである。
かといって自分の手は祖母のように四人の子供たちを育て上げたわけではなく、半年預かった孫の世話をするわけでもなく、呑兵衛校長から隠居老人になり朝から湯呑みで隠れて酒を飲む夫の世話をするわけでもなく。特に何も生み出すこともなく気の向くままに本のページを繰り、せいぜい必要に迫られた文字を少し書くにすぎない。以前は弾いたピアノも今はもっぱら本を置く台と化している。パソコンを叩きながら時折目にはいる手の甲はまるで祖母に会うような気持ちになるほどよく似ているのに。干した花豆をよりわける時。朝、起きた私に配達されたばかりのヤクルトを渡す時。私が絵を描くためのちびた鉛筆を小さな剃刀で削る時。祖母の手はいつも同じ色をして、お風呂上がりのはずなのにしっとりすることもなく、温かくもなく冷たくもなく、寝る前に乾いた甲に青缶をすりこむ時はかすかに乾いた音をいつまでも立てていた。
祖母は私が大人になり家を出てしばらく後に私の実家で旅立った。その前年に老衰で、夜寝ている間に自分のベッドで静かに逝った祖父は、色々あって私の実家の近くに父が建てた墓に入った。その一周忌のために両親の元で過ごすうちに体調を崩し、そのまま帰れなくなったのだ。
小さな四畳半で床に伏せたまま数週間を過ごした後旅立った祖母。私は社会人になり数年目で既に家を出て一人暮らしをしていた。猛烈に忙しく、その頃の経緯をあまり覚えていない。ただ、文字通り祖父の後を追うように、たった1年と少しで旅立った祖母が不思議だった。お父さんと結婚しなければ、と時折蛍光灯の下でつぶやくことがあった祖母。中野の菓子問屋の娘だったという祖母の若い頃の写真を一度見たことがあるが、古い写真だとしても粗末な縞の着物で、大きく髪を結い、こわばった口元で、妹たちの後ろに立っていた。お父さんと結婚したからね、しょうがないよ。戦争だったからね、しょうがないよ。年とっちゃったからね、しょうがないよ。しょうがないよ、というのが祖母の口癖だったのだ。しょうがないよ、と諦める中に何かを希望と感じて暮らしていたのだろうか。ほとんど笑わない祖母が、夜寝る時に「薔薇のマークの高島屋」と言いながらタオルケットをかけてくれる時に見せてくれる笑顔が私にとってのたった一つの祖母の笑顔の記憶だ。孫として孫らしく、祖母を愛せたことはあったのだろうか。結婚式に来て欲しいから、私が結婚するまで長生きしてね、おばあちゃん。と言った記憶があるが、花嫁姿を見せることはできなかった。
祖母が旅立った後、住人を無くした北関東の家に片付けの手伝いに行ったことがある。よく訪れる伯母たちに捨てろ捨てろと言われていたデパートの紙袋や紐の類が、居間の押し入れいっぱいに丁寧にたたまれて入っていた。あの節くれだった手で一枚一枚、丁寧にたたんでは束ね、たばねては押し入れにしまっていたのだろう。全て捨てられ、家は取り壊され、今は空き地になっている。
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