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「文春の流儀」を読む〜記者は普通の人間であるべきだという心構え

情報提供者を徹底的に守る

 週刊文春、文藝春秋の編集長を務め、3年前に退社し、いまは女子大で教鞭をとる木俣正剛さんの著書「文春の流儀」を読んでいます。

 スゴイ本です。文春の記事の出来上がり方をここまで明かしていいのかなと思う半面、これは他のメディアにはなかなかまねのできない仕組みだということにも気が付きます。衰退する新聞を含めてメディアの将来を考えていくためのヒントを得ることもできます。

新聞社の取材経費との違い

 神戸の酒鬼薔薇事件、和歌山の毒物カレー事件など文春が大スクープをものにするために投入する時間、費用は半端ではなさそうです。情報提供には一銭も支払わない半面、どんなにお金がかかっても情報提供者の安全を守る。政治家のスキャンダルを告発した愛人を記者2人を同行させてハワイに一週間かくまったこともあるといいます。

 新聞社で取材経費といえば、夜討ち朝駆け用のハイヤーを借りたり、飲食で接待したりというものがほとんどでした。

 バブル期、私が勤めていた日本経済新聞社の経済部では、ある夜の部会で「今月のハイヤー代が1千万円を超えた」と部長が説明したことがあります。ずいぶんと無駄なお金の使い方をしていて、慣れっこになっていたものです。

 新聞各社は官庁や業界団体の記者クラブに所属していて、取材先からの情報提供がある程度約束されてるので、大臣や官僚、社長さんら主だった情報源のご機嫌さえとっていれば大スクープはとれなくても、特オチは回避できるという意識がいまなお残っています。

 戦後の議員立法で日刊新聞法が制定され、日本の新聞社が外部資本による買収から守られているのは、新聞社は利益よりも取材成果を優先する組織だからという新聞業界の主張が受け入れられたからです。新聞の赤化を恐れたGHQや経済界の意向にも沿うものでした。

 しかし、新聞以外のメディアによる報道の仕方や影響力の増大を考えると、もはや法律で守られる根拠を失っていると考えるべきかもしれません。発行部数と広告の減少で取材費を削ってばかりいる新聞に「文春砲」のようなスクープを期待するのは難しくなっています。

身内に対しても厳しく

 ▶︎「ガイシャ」だの「マルガイ」だの(どちらも被害者のことですが)、入社すぐに業界用語を連発する若い記者ほど伸びません。記者はいつも普通の人間であるべきでしょう。

 こんな一文にも共感を覚えます。私も業界用語、隠語の類が苦手です。どうも身内の狭い世界の常識に染まって、ニュースの評価や判断を間違えてしまいそうな気がするからです。名前の呼び捨ても悪習かもしれません。首相官邸の記者会見が最たるものですが、霞が関でまん延するまるで身内同士のやり取りのような記者クラブでの会見にもなじめませんでした。

 瀬島龍三氏のインタビューに同席した際、瀬島氏に「木俣さんという重役が伊藤忠にいますが、親戚ではありませんか?」と問われて、「取材に行くと、知り合いの名前を出す人が良くいるのですが、たいてい隠し事がある人です」と言ってのけたとか。知り合いの名前を出す人は警戒を要する場合が多いですから、まったく同感です。

 「社会の木鐸」としてのジャーナリズムのあり方を彼ほど愚直に、真摯に追い求めてきた編集者はなかなかいないかもしれません。退社した際に社外にもインターネット経由でリークされた「社員の皆さんへ」という文書にも愚直さが表れています。

「自分は松井社長の会長就任を阻止する。しかし、権力闘争と社外に受け止められぬよう自分も辞める」

 身内に対しても、自らに対しても厳しくあり続けることはふつうとても難しいことですが、それを貫いてこそメディアへの信頼が保たれるものなのです。

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 私の勤め先だった日本経済新聞社も幾度か週刊文春に醜聞を暴かれていますが、企業の不正やガバナンスの不徹底を説教するのと同じくらい強い調子で社内の不正や規律違反をただす社員はほとんどいませんでした。声を上げても、職場の先輩でもあった大塚将司さんのように懲戒解雇処分(のちに和解、復職)を受けたり、職場で奇異な目で見られたりしました。

 ちょうど20年前、私は日経子会社の不正会計の第一発見者となりましたが、日経本社が身内に対する調査を躊躇するうち損害はアッというまに膨張してしまいました。最終的に回収困難な債権を償却するまでに15年かかりましたが、日経は関わった役員たちに損害賠償を請求しないままでした。新聞はかなり身内に甘い組織だと私は思います。

雑誌しか書けない真実もある?

 40年前のいま時分、新聞記者なりたての私は、木俣さんとゼミ同期の早大政経学部吉野孝教授(当時助手)の紹介で木俣さんにお会いしました。私も同じゼミの3つ後輩です。ランチをご馳走になりながらジャーナリストとしての心構えを教わりましたが、反省することばかりです。

「新聞が書かないこと、書けないことがたくさんある。週刊誌はそういったことも全部書く」

 細かなことはもう忘れてしまいましたが、日々の円相場の動きから、ロッキード事件のような疑獄、殺人のような凶悪犯罪まで世の中の出来事は新聞が全部書くと信じて疑わなかった私は驚きました。

 しかし、新聞社という組織に身を置いて、時間が経過すればするほど、その言葉を実感するようになりました。日々大量のニュースを掲載する新聞は訴訟リスクのありそうな話題や表現を極端なまでに避けて通る傾向にありますが、そうした体質は事実確認をかえっておろそかにして報道機関としての新聞を弱体化させたように思います。

 高度成長とその後のバブルの間に、部数拡大と広告増で大いに潤った新聞社は、そのお金の使い道を間違ってしまったのかも知れません。


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