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和歌に見る『春泥棒』の心

 ヨルシカ好きの皆さん、和歌を知るとヨルシカの世界をより楽しむことが出来る、そうは思いませんか?

 ヨルシカ作品はよく短歌や俳句がオマージュされています。

 『ただ君に晴れ』では、正岡子規の“絶えず人いこふ夏野の石一つ”、『爆弾魔』には、加賀千代女の“散れば咲き咲けば散りして百日紅”など、歌詞の中に美しく折り込まれ、曲の世界観が見事に表現されています。

 以前から枕詞や古語表現も使われていましたが、今回アルバム『幻燈』に収録されている『都落ち』は万葉集の一首からのオマージュ。初めて和歌が正式にオマージュされた訳です。しかし、もしかすると古くから和歌に歌われていた和の心という点で見ると初めてではないのかもしれません。

 花を人の命に例えた作品『春泥棒』。花びらを散らし、盗んでいくのが風ならば、人の命を散らすのは時間。素敵な発想ですよね。

 でも実はこれに近い考え方というのは昔からありました。前置きが長くなりましたが、今回は春泥棒的な世界観を和歌の中に見ていこうと思います。

 まずはこの一首、

   “花の色は 霞にこめて 見せずとも
                香をだに盗め 春の山風”
(花の色は霞に閉じ込めて見せないとしても、せめて香りだけでも盗んできてくれ、春の嵐よ。)

遍昭『古今和歌集』

 霞が出て、遠景に見える峰に、咲いているはずの桜が見えない。だからせめて香りだけでも盗んできてくれ、と山風に願う、そんな歌です。春泥棒では、お願いだから盗んでくれるな、ですが、この歌の中ではどうか盗んでください、と状況は違うものの、風が泥棒で、泥棒にお願いするという点で共通していて面白いですよね。

2つ目はこの一首、

   “吹く風にあつらへつくるものならば 
               この一本はよきよといはまし”
(花を吹き散らす風に注文をつけるのならば、この一本だけは避けて吹けと、言おうものを。)       

詠み人知らず『古今和歌集』

 避けて吹けと注文を付けたいが、風には通じないので、花はむなしく散っている、という歌ですね。散るなまだ春吹雪、にも通じる感覚がありませんか?

最後はこの一首、

   “春ごとに花のさかりはありなめど 
               あひ見むことは命なりけり”
(春になるごとに美しい花の盛りはきっとあるだろうけど、その花の盛りを見るということは私の命があってのことだ。)

詠み人知らず『古今和歌集』

 これから先あと何度この桜が見られるだろう、そう思えるのも命があってこそ。これから先あと何度あなたに会えるだろう、それも命あってこそ。この歌を詠んだ人にも大切な人がいて、悲しいお別れとなってしまったのでしょうか。盗作おじさんも先の短い妻の命を前に、この歌のような気持ちになったのかもしれません。


 いかがだったでしょうか。日本人は遠い昔からこんな素敵な感覚を持っていたんですね。和歌を知ることで、皆さんが今後もより深くヨルシカの世界を楽しめることを期待しています。

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