サボりました(柄谷行人 他編『必読書150』に出会って)。

サボりました。
ライターになりたいとか言いながら書くことをやめて一週間過ごしました。
元々noteでジャンプの感想くらいしか書いてなかったのにサボりました。
サボっている間に何をしていたのかというと、私は柄谷行人 他編『必読書150』という本を読んで勉強をしようと思ったのでした。
この本を読んで私は早速プラトン『饗宴』を読みました。おそらく『必読書150』が無ければ読まなかったであろう本です。その他にも『必読書』に挙げられた本を入手しています。折しも神保町で古本まつりが催されていたので中古本を安く手に入れられたのが僥倖でした。そうでなければ手に入れることさえためらうくらい高価な本が羅列されるのがこの『必読書』という本なのです。

そして『必読書150』という本の帯にはこう書いてあるのです。「これを読まなければサルである。」と。あまりにも挑発的な売り文句ではないですか。しかも、挙げられた本は恐ろしく難しいものばかりなのです。
例えばアウグスティヌス『告白』。読書家の方ですら聞いたことがないかもしれません。この本はローマ帝国時代のキリスト教によって分断された哲学(古代ギリシャ哲学)と欧州を橋渡しした重要な著作なのですが、現代では一般の人には滅多に読まれません。他にもデカルト『方法序説』、カント『純粋理性批判』、ハイデッガー『時間と存在』、ドゥルーズ&ガダリ『アンチ・オィディプス』などの難解極まる本を平気な顔で羅列しています。

私が『必読書150』に出会ったのはジュンク堂池袋本店に設けられた柄谷行人フェアの棚でした。柄谷行人の著作は読んだことがなかったのですが、あの「サルである」という帯が目に入って離れませんでした。哲学を学びたい、言葉にしたい、書きたいと考えながら何もしていない私の図星を突く言葉だったからです。私はサルでした。サルである自分から逃避するべく書店をウロウロするつもりだったのです。そこで私は現実を突きつけられたのでした。

この『必読書』という本はある意味無責任な本で、150冊の本を全て理解するつもりで読むことはないと述べています。むしろ初学者がこれらの本を網羅的に理解することは無理だろうと編者は考えています。
それなのに難しい本を読ませようとする意味は何なのか。それは知に直接触れる勇気を持つことだと私は思うのです。

難しい本や思想、カントやハイデッガーには多くの解説書や入門書があります。しかしそれらが「元になった本がわからないから代わりに読む本」と見なされると元の本に触れる機会が失われます。最先端の学問はそれらの重要な著作によって進んでいくのにも関わらずです。
『必読書150』はそういう本に体当たりで触れることを勧めています。