2021年2月22日。
あるtweetを見かけた。

手話が広がるのも大切やけど、
聞こえない人と話したいと思う人が増える方が大切。
そして、聞こえない人は
『手話覚えて!』じゃなく
思わず仲良くなりたいって思ってもらえるような
魅力のある人にならないとね。

ハッとさせられた。
かつての自分の思考と同じだった。

きこえる人に手話を覚えてもらえるには、
手話で話したいと思ってもらえるような
魅力のある人にならなきゃいけない!
そのためにも、きこえる人より努力をしないと!

この思考に至るまでの自分の過去を辿ると、
両親のこの言葉が元だったのかもしれない。

「きこえる人の3倍、努力をしなさい。」

両親なりに、どうしたらいいかわからない中、
自分の将来を案じての、
精一杯の言葉だったのだろう。

”きこえない”ことは
”きこえる”ことよりも3倍劣っている…?

”きこえない”自分に対して、
負のレッテルを貼られた瞬間だったのかもしれない。
それも、知らずしらずの内に。

きこえない友人らと出会い、
手話を覚え始めた中学2年以降も、
きこえる人とのやりとりは口話一本。

嫌われないように…疎まれないように。

きこえる人の心証を良くすることに腐心していた。
その甲斐あってか、少しずつ友人が増えてきて、
なんとか学生時代を乗り切れた。

後悔の念から、というわけではないが、
今ではこう思う。

もし、当時、自分が口話を使わずに、
筆談や手話を使っている自分であっても、
彼らは仲良くしてくれていただろうか?
”口話をする”ことが、
友人になれる条件のひとつ、
言い換えれば、
自分の”魅力”のひとつ、に含まれていたのか?

”きこえる人に合わせられる”人=”魅力的”な人

という方程式が、
前の自分の頭の中にこびり付いていたのだと、
つくづく思う。

きこえる人に合わせられるように、
きこえる人と同じ土俵に立てるように、
きこえる人の3倍努力をしなければ。

あの頃の自分の思考を掘り下げれば、
この文章が一番近いのかもしれない。

今や、手話カフェでは口話は一切使わず、
手話を知らないお客様ともやりとり。
指差し、身振り、手話、筆談。
ごく”自然”な自分がいる。ある。

最近では、
帰り際に”ありがとう”の手話を表現すると、
そのまま手話で返してくださったり、
”おいしかった”と手話で表してくださる方も。
その時の嬉しさや感動は、
学生時代の時には全く味わえなかった。

”実像”を伴った、”自然”な自分だったからこそ、
この感動が響いたのだとも、思う。

今ではわかる気がする。
他人に合わせるために、
自らを押し殺してまで生み出された自分像は、
ただの”幻影・虚像”でしかない。

学生時代は、
その”幻影”を作り上げては、保つことに、
一生懸命だったのかもしれない。

でも、そういう時期も必要だったのかもしれない。
星に気づくには闇夜が要るように、
実に気づくには虚が要る。

そのまま。
ありのまま。
いつもどおり。
自然。
自分らしさ。

ただ、在る。
他人には、必ず自分には無い何かが在る。
それが”魅力”のひとつにもなり得、
それにただただ”魅了”されてゆく。

それに気づける人間であれ。

…自戒を込めて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?