『論理哲学論考』感想 ~解説も少し~(2)

前編 https://note.com/kasatatekingyo/n/n0e235fb2ea3d

前回、書くことがなくなったので締めますと書きましたが、あれは嘘だ!というわけで論理哲学論考で言うべきことが言えてませんでした。
オカルト、似非科学的なもの否定です。アマゾンレビューに読んでも意味ないとかわからないとか、逆に当たり前のことというネガティブな感想ありますが、そんなことはありません。
論理哲学論考の結論はかなり実践的なもので、人生においてすごい役に立つ場面はあります。かなり初歩的な利用法としては買い物するとき、怪しい商品を買わないためにも、科学用語が正しく使われいるか、説明の論理が破綻してないかとか検討して論理的に説明できるようなものであれば問題ないし、論理的な説明がない商品はやはり買わないでおくべきでしょう。
また、この世に似非科学や神秘主義や考えても答えが出ないような論考的に命題ではない問題で悩んで失敗する人がいることを考えるとそこまで当たり前の主張ではないようです。なのでこれから読もうとおもっている方は是非私が前に書いた注意点に気を付けて、ぜひ読んでください。論理哲学論考は下手な自己啓発本を読むよりよっぽどおすすめです。
よく世間でいうところの哲学的だな~という話題はたいてい哲学の問題ではないというのがウィトゲンシュタインの主張でもあります。これはかなり重要なことで、世間の大多数は哲学を誤解しているということですね。もしくは世間では哲学的だな~に類するフレーズはギャグということですね。友人が言ったら笑ってあげましょう。エモいという言葉の功績は哲学的だな~に類するフレーズをエモいにという表現に変えてくれたことでしょうか。それだけですごい功績ですね。

ウィトゲンシュタインの論理哲学論考に関してもう一つ。あくまでラッセルの『プリンキピア・マテマティカ』の中に出てくるモデルで語られてます。自己言及が禁じられたり等、現代の数理論理学の教科書とか読んでいると違和感あると思います。これを語るためにわざわざこの記事続編書いています。プログラミング言語で自己言及禁じたら再帰的な処理が全部かけないじゃんってなりますね。
直観主義論理などの非古典論理やフォンノイマン・ベルナイス・ゲーデル集合論(NBG)のような代替集合論の存在を知っていればわかると思いますが、ウィトゲンシュタインの言っている語りえないことはモデルで変わるということです。だから新しいモデルが出るたびにこれまで語りえなかったことが語りうる可能性はあります。まあ逆もあるのですが。。
つまり、論理哲学論考ののちの展開を知りたいなら、哲学探究もありですが、非古典論理や代替集合論の勉強をするのも一つの手だということが言いたかったです。もはや現代では論理哲学論考は逆に論理的表現の可能性を探る契機になった、またはこれからもなり続ける作品です。
今度こそ語りうるものがなくなったのでこの論考についての感想を締めます。


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