新城孝一

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最近の記事

鵜殿のヨシ焼き

 朝、樟葉から牧野にむかって淀川左岸の河川敷を自転車で走っていると、対岸から煙が昇り始めた。鵜殿のヨシ焼きが始まったようだ。淀川右岸へ向かう枚方大橋の上にも煙のにおいが漂っている。橋を渡り上流方向へ自転車を走らせる。河川敷からも白い煙が見える。河川敷の道は途中で通行禁止となり、係の人に誘導されて堤防の道へと上がる。少し走ると人だかりが見える。大きな望遠レンズのついたカメラを持った人たちもいる。河川敷には消防車待機しており、燃え上がる火の手を消防士が見守っている。ヨシ原はすでに

    • 流星と海賊 坂口安吾と大阪

      1 流星  1952年2月、坂口安吾は雑誌に連載しいていた「安吾新日本地理」の取材のために大阪を訪れる。のちに「道頓堀罷り通る」という題で発表されるそのエッセイは、まず東京の新聞とは大きく異なる、大阪の新聞の「エズクロシイ」というところから語り始められる。「エズクロシイ」とはエロがかったエゲツナサを特にこう現す、と説明されている。その「おもろかったらなんでもええやん」という心意気に一目置き、その実態を確かめる旅になっている。その「エズクロシイ」新聞の代表として出てくるのが「

      • 大阪文学散歩 東秀三の天満老松町

         「天神橋筋、天満老松町、曽根崎新地、中ノ島三丁目。大阪「キタ」界隈の地形、町の匂い、人情を浮き彫りにする新しい地政学的連作小説の成果。」    1991年に編集工房ノアから出版された東秀三の「中之島」の帯にはそう書いてある。  ここに収められた小説の主人公たちは職業や年齢、家族のあり方はそれぞれだが、みなキタとは違う町で生まれ育ち、今も別の町で暮らしている。彼らはキタの町で働き、一日の大半をそこで過ごし、家族といる町とはまた違う人間関係を紡いでいる。昭和から平成へと移り変わ

        • 大阪文学散歩 開高健の龍華操車場

           1945年開高健14歳。学徒勤労動員される。森ノ宮駅、八尾飛行場、国鉄龍華操車場などで働き、そこで終戦を迎える。自伝的小説「青い月曜日」の第1部「戦いすんで」は14歳の、終戦までの日々が描かれている。戦時下の暮らしを描いた小説だが、青春小説でもある。中学生の少年ならではの性欲の悩み、あてどない食欲、肉体を動かすことへの快感、知識への渇望、友人たちとの関係、自己嫌悪。暴力的な同級生、卑屈に暴力を受け続ける同級生、記憶力抜群だがどこかぬけた同級生、変質的なまでに凝り性な同級生。

        鵜殿のヨシ焼き

          大阪文学散歩 山田稔の安威

           先日、阪急茨木市駅から阪急バスで安威を訪れてみた。午後2時前に茨木市駅のバス停につくと、ちょうど山手台7丁目行のバスが止まっていた。2時台は3本運行しているようだ。平日の昼間でも座席が埋まる程度の乗客がいる。バスの前方で吊革につかまってフロントガラスからの景色を眺める。安威までは茨木亀岡線を走り、国道171号線を横切って、途中耳原など7つの停留所を過ぎていく。15程度で安威南と安威の間にある塚原口のバス停に到着する。安威川をはさんで東側は高槻市の塚原で西側が安威である。両脇

          大阪文学散歩 山田稔の安威

          「大阪文学散歩 井上究一郎の古曽部」

          下りの急行が高槻駅にさしかかる手前で、北摂の淋しい山沿いに、小学校の屋根が小さく見えたとき、私は思わず傍らの同僚に、「あれが僕の小学校だ!」と言った。      プルーストの「失われた時を求めて」の翻訳で知られるフランス文学者井上究一郎のエッセイ集「水無瀬川」に収録されている「私のふるさと」の一節だ。  JR京都駅から大阪行きの列車に乗ると、大山崎の辺りで進行方向に向かって右手に山裾が迫ってくる。左手にはそれまで離れて走っていた阪急電車と新幹線が並走するように迫ってくる。そ

          「大阪文学散歩 井上究一郎の古曽部」

          大阪文学散歩 津村記久子の此花大橋

           大阪は海に向かって開発されてきた街だ。戦後湾岸地区は次々に埋めたて整備され、人工の洲も作られてきた。そして埋め立て地や人工洲を大きな橋でつないできた。そうやって開発された場所として咲洲、舞洲、夢洲という3つの大きな洲がある。その3つの洲もバブル経済の崩壊後は開発の速度が鈍化している。咲洲や舞洲は空き地が目立ち、夢洲はまだ埋め立て途中だ。    大阪を舞台に人々の日常生活と心の機微を作品にしてきた作家津村記久子に「とにかくうちに帰ります」という作品がある。豪雨の日に運悪く洲

          大阪文学散歩 津村記久子の此花大橋

          虎狼痢と骨喜(コロリとコーヒー)

           先日、中之島府立図書館で行われていた「江戸時代の日本人とコーヒー」大阪資料・古典籍室 第153回小展示を見てきた。江戸時代と言えば鎖国のイメージがあり、その時代に日本人がコーヒーを飲んでいたとは不思議な気がする。しかし、思いだしてみれば「蘭学事始」や「解体新書」などが書かれたのも江戸時代である。徳川吉宗の時代以降は、キリスト教関係以外の欧州の文物はオランダ経由で国内に持ち込まれていた。医学や天文学などの学問だけでなく、いろいろな文物が長崎から日本各地へ広まっていった。西洋の

          虎狼痢と骨喜(コロリとコーヒー)

          大阪文学散歩 織田作之助の口縄坂

           大阪市内の南北を背骨のように走るのが上町台地である。大阪は坂の少ない町だが、この上町台地周辺は名の知れた坂がいくつもある。淀屋橋から松屋町筋を南下し、学園坂の交差点から谷町筋に登っていく坂道は、その名の通り学園坂と呼ばれ、カーブを描く坂を登っていくと六万体の交差点に出る。この坂のすぐ南側の自動車販売店とお寺の間にある歩行者用の細い道が口縄坂である。道の入り口には「口縄坂」と彫られた小さな石碑があり、その横には「口縄坂」の由来を書いた看板が立っている。 口縄坂  坂の下か

          大阪文学散歩 織田作之助の口縄坂

          「淀川」

          ⑬3冊目の「淀川」  2月の半ばに開催された京都の古本市で3冊目の「淀川」を見つけ購入した。こちらも500円。三冊目だが、著者は同じ北尾鐐之助。ただし文庫サイズで出版社が変わっている。昭和21年12月20日発行。発行所は宝書房。戦後に出されたものだ。オリジナルの表紙は右側に大阪城付近の江戸の地図があり、開いた左側には縦書きで淀川、少し小さい字で北尾鐐之助著と書かれていて、デザイン性に富んだものだ。この文庫サイズのほうは黄土色の紙に左右下部の三方に紅葉をあしらった飾りが施され

          「淀川」

          「淀川」

          ⑫大川  毛馬の閘門から引き入れられた川の水は大阪城の側で大きく曲がり、中ノ島で堂島川と土佐堀川に分かれる。この分岐点までの旧淀川は、今では大川と呼ばれている。大川沿いの河川敷も遊歩道が整備されており、休日には市民ランナーでにぎわっている。東側の遊歩道の源八橋を少し下った場所に桜ノ宮ビーチという人工の砂浜があり、ビーチバレーやビーチサッカーの大会などが行われることもある。大会のある日は観客や、散歩がてらに見物していく人たちでにぎわう。大学のカヌー部の部室もあり、何人かでカヌ

          「淀川」

          「淀川」

          ⑪新淀川  毛馬の対岸柴島浄水場の辺りから新淀川になる。  十三大橋の北側に阪急神戸線、宝塚線、京都戦が交わる十三駅がある。駅周辺は淀川右岸では一番の繁華街だ。数多くの飲食店が並び、特に夜にぎわう街だが、一本違う通りに入ると風俗店が立ち並んでいて、十三の町を知らない人は戸惑うだろう。西口改札を出たすぐの路地はしょんべん横丁と言われ、安く飲み食いができ、さらにおいしいということで昼間からにぎわっていた。しかし、2014年の春に火災により39の店舗が全焼してしまった。それでも2

          「淀川」

          ⑩毛馬  淀川左岸の河川敷沿いを走ると大きな水門のある場所で道が途切れる。ここが毛馬の閘門である。毛馬の閘門の側に与謝蕪村生誕の地の石碑が立ち、春風馬提曲から「春風や堤長うして家遠し」の句が大きな石に刻まれている。  この石碑から少し南に下ったところに毛馬公園があり、与謝蕪村出生の地とある。江戸時代の俳人で画家である与謝蕪村は摂津国東成郡毛馬村で生まれ、二十歳のころに江戸に出て俳諧を学ぶ。幼少期はほとんど語られていない。40代になって京都に居を構え、そこで結婚し子を育て没し

          「淀川」

          ⑨淀川左岸  淀川の治水について読むと、一番初めに書かれているのが、仁徳天皇の茨田堤のことである。この堤は寝屋川から旭区の千林の辺りまで続く長いもので、工事は難航したという。仁徳天皇は、武蔵の国の強頸と河内の衫子を人柱にすればいいというお告げを夢で見て、二人に人柱となることを命じた。強頸は人柱となったが、衫子は機転を利かせて人柱になることを逃れた。その後、茨田の堤は無事に完成したと言う。堤防には大きな茨田堤の石碑が立っていて、横にはそのいわれを書いた石板もあるが、風化してい

          「淀川」

          ⑧淀川右岸  くらわんか船はもともと高槻の柱本の人々が権利を持っていたのだが、活動の中心が枚方に移った経緯について東版ではこう書かれている。 「寛永年間(一六二四~四三年)には高槻の柱本に二十隻の船があり、その内の一隻を船株ごと枚方に売ったのが、枚方での始まりだという。」 「その後は枚方のほうが地の利に恵まれていたこともあって、高槻はお株をとられたかっこうだ。なにしろ、当時の枚方は伏見、淀、鳥羽につづく港で、船の出入りが激しい。」  枚方の港が京街道に面していたのに比

          「淀川」

          「淀川」

          ⑦枚方  北尾版では戦前の枚方の様子が次のように書かれている。  枚方はむかしから淀川流域の河港として重要な土地であるが、いまでは、どこをどうあるいてみても、時代からとり残された衰退の色が濃く、京阪電車はこの淀川に沿った街村を縦に貫いて、いまでは誰も河港などとは思わず、菊人形の町位にしか考えない。    現在の枚方市は大阪、京都いずれも通勤圏のベットタウンであり、大阪で5番目の人口を擁する大きな街だ。京阪枚方市駅から京阪枚方公園駅にかけて、枚方歴史街道として整備さ