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虎狼痢と骨喜(コロリとコーヒー)

 先日、中之島府立図書館で行われていた「江戸時代の日本人とコーヒー」大阪資料・古典籍室 第153回小展示を見てきた。江戸時代と言えば鎖国のイメージがあり、その時代に日本人がコーヒーを飲んでいたとは不思議な気がする。しかし、思いだしてみれば「蘭学事始」や「解体新書」などが書かれたのも江戸時代である。徳川吉宗の時代以降は、キリスト教関係以外の欧州の文物はオランダ経由で国内に持ち込まれていた。医学や天文学などの学問だけでなく、いろいろな文物が長崎から日本各地へ広まっていった。西洋の知に刺激されて新しい学問に取り組む蘭学者も増えていった。杉田玄白や前野良沢といった蘭学者の交流の中でコーヒーも広まっていったようだ。
 とは言えコーヒーを飲むことが一般庶民まで広まったわけではないようだ。コーヒーの価格が問題になったのかもしれないが、それだけなら大阪の豪商などに広まってもおかしくなかっただろう。そうならなかったのは、やはりコーヒーの苦みが障壁となったのかもしれない。

 シーボルトの「江戸参府紀行」平凡社が展示されており、日本にコーヒーを広める方法としてこんな解説が付けられていた。「一番いい方法は、コーヒーは長寿にきくと宣伝することであろう。」コーヒーの味わい云々ではなく、薬として広めるほうが早いという指摘は興味深い。事実コーヒーは初め薬のように受け入れられていったようだ。展示されていた廣川獬の「長崎聞見録」はコーヒーの効用について、利尿作用や消化を良くすると言ったことが書かれてた。隣には同じく医者であった緒方洪庵の「虎狼痢治準」も展示されていた。緒方洪庵といえば大坂ゆかりの蘭方医で、中之島図書館から土佐堀を挟んだ南側の北浜にその適塾跡があり、またその一つ南の今橋には除痘館記念資料室がある。江戸時代に薬問屋が軒を連ね、今も製薬会社が並ぶ道修町はもう一つ南の通りである。

 緒方洪庵の適塾は福沢諭吉や大村益次郎といった英傑を輩出したことで知られている。それに加え、この春以降の伝染病の流行で、緒方洪庵自身の医者としての功績も注目されるようになっている。除痘館は緒方洪庵が天然痘予防のために牛痘種痘を広めるために開設した施設である。この施設の運営を通して西日本を中心に牛種種痘が普及していった。とは言え初めは根強い偏見により、牛種種痘はなかなか広まらなかった。しかし粘り強く牛痘種痘の接種の普及に取り組んだことにより天然痘の伝染を抑えることに成功した。江戸末期にはコレラが大流行すると緒方洪庵はオランダの医学書のコレラの治療法をまとめ、「虎狼痢治準」という冊子を作り、これを医者達に無料で配布した。その「虎狼痢治準」にはコーヒーについてこう書かれている。「骨喜(コーヒー)にリュム(酒名)を加えたもの、あるいは醇豆のマーデル(酒名)等を与えて精力を発揚すべし」やはり薬との扱いだったようだ。

 緒方洪庵がコーヒーを飲む機会はあったのだろうか。林哲夫の「喫茶の時代」には「長崎から大阪へ初めてコーヒーを紹介したのは木村兼葭堂」とある。この木村兼葭堂は大坂が生んだ偉大な町人学者で、その学問と趣味の範囲は広大であり文物の大コレクターであった。その交友範囲も広く、大槻玄沢や司馬江漢など日本中の蘭学者をはじめとする学者や多くの著名な文人と交流があった。緒方洪庵の師は中天游という蘭方医なのだが、その中天游の師である高橋宗吉は木村兼葭堂と交流があった。この高橋宗吉は蘭方医のかたわらエレキテルの研究を行うなどかなりの学才で興味深い人物だ。中天游は緒方洪庵の才能を認め江戸に遊学させることにする。緒方洪庵は江戸で坪井信道に入門する。坪井信道は宇田川玄真の弟子であり、この宇田川玄真は大槻玄沢の弟子である。大槻玄沢と言えば前野良沢から「蘭学事始」を送られた人物である。このような蘭学の人脈の中から出てきたのが緒方洪庵だった。そして、この緒方洪庵の適塾の教え子の長與専斎が、その後明治に流行したコレラの対応をすることになる。学術の大切さがよくわかる。このような蘭学者の交流の中で共有されたのは医術だけでなく西洋の文化も同様だった。「喫茶の時代」によると、江戸の大槻玄沢らは西暦の正月に集まって洋食を食べる新年会「おらんだ正月」を開催しており、コーヒーもそこで供されていたそうだ。


 緒方洪庵はコレラの治療法を医師たちに広めるために「虎狼痢治準」を無料で配った。そして同時に庶民に対しては、コレラの恐ろしさを虎と狼が合わさった化け物の絵で表現して伝えていった。未知の伝染病が流行する時には、科学的な知見と発信力が重要であることには変わりはないのだ。


参考文献

林哲夫 「喫茶店の時代 あのとき こんな店があった」ちくま文庫 2020年4月10日 第1刷発行

足立巻一 「学芸の大阪」 編集工房ノア 1986年6月14日発行

緒方富雄 「緒方洪庵伝」 岩波書店 1977年10月25日第2版増補版第3刷発行



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