見出し画像

大阪文学散歩 東秀三の天満老松町

 「天神橋筋、天満老松町、曽根崎新地、中ノ島三丁目。大阪「キタ」界隈の地形、町の匂い、人情を浮き彫りにする新しい地政学的連作小説の成果。」
 
 1991年に編集工房ノアから出版された東秀三の「中之島」の帯にはそう書いてある。
 ここに収められた小説の主人公たちは職業や年齢、家族のあり方はそれぞれだが、みなキタとは違う町で生まれ育ち、今も別の町で暮らしている。彼らはキタの町で働き、一日の大半をそこで過ごし、家族といる町とはまた違う人間関係を紡いでいる。昭和から平成へと移り変わる時期に、バブル景気の余波を受けながら生きる主人公のたちの姿がある。

 「天満老松町」の主人公の良太は加賀の老舗旅館の案内所で働く40代とおぼしき男だ。親類の営む旅館の案内所を任され、妻子と離れ大阪で独り暮らす。この小説では、その良太が小料理屋の女将おゆきやその家族と交流を重ねていく姿が描かれている。

 中之島の北を流れる安治川と国道一号線のあいだ、今は西天満と呼ばれる大阪高等裁判所のあるあたりの一角は、かつて老松町と呼ばれていた。大阪高等裁判所と同じ敷地には大阪地方裁判所と大阪簡易裁判所があり、付近のテナントには多くの法律事務所が入っている。そして法律事務所の他に目に付くのが、骨董屋やギャラリーである。老松町は大阪を代表する骨董街となっている。

 小料理屋ゆきが初めて登場するのは、主人公の良太が仕事の相手である衣料問屋の木村と訪れる場面である。

 その日、木村と待ち合わせたのは、キタのゆきだった。今は西天満と町名の変わった老松町にある小ぢんまりとした料理屋で、あまり目立つ店ではない。間口の小さな民家で、紹介でもされないと入りにくい。そこが今の二人にはちょうどいい。

東秀三「天満老松町」

 元芸者の女将おゆきと女性の板前のお葉そしておゆきの娘の美佐子が手伝うその店には、地元の骨董屋や画廊の主人や弁護士の他にデザイナーやカメラマンも飲みに来ている。

 小説の舞台となる老松町の町名は老松神社に由来する。老松神社の由緒には「古く神功皇后九州筑紫より帰航の折 巨松に風波の難を避け樹下に柱を建てたの始まりと伝う のち皇紀二年(八六〇)白砂青松の地(旧老松町三丁目)を卜し老松神社を建立す」と記されている。
 老松神社は豊臣秀吉の大坂城築城を機ににぎわうようになったが、享保のころの大火で老松を失ってから荒廃してしまった。そして、いったんは所在を失ってしまうが、明治になって再び建立された。

 
 まだ何度か顔を出した程度の良太のもとにおゆきから連絡がはいる。良太が加賀の温泉旅館の社員ということを聞き及んだおゆきが、九谷焼の買い入れの手伝いを頼んできたのだ。良太はそれを引き受け、加賀でおゆきとお葉のお供をすることになる。良太の口利きもあり、おゆきとお葉は満足の行く買い物をすることができた。その時のお礼に良太がおゆきに招かれたのは店ではなく、二人の住む家だった。

 その日は女将に言われたとおり、ゆきの四軒東側にある路地を北に入った。日曜日の午後遅くで、良太がいつも通いなれた街並みが静まり返っている。何度も歩いているところだが、いままでそんなところに路地があることさえ気がつかなかった。うかつといえばうかつだ。
 突き当りを左に折れると、石畳を敷きつめた袋小路はたった四軒分で行き止まりになる。家家の玄関は開け放たれていて、狭い土間からすぐに家に上がるようすが、のぞき込むつもりはなくても見えてしまう。
 

東秀三「天満老松町」

 天下の台所と言われ経済の中心だった江戸時代の大坂中ノ島や堂島の辺りは全国の諸藩の蔵屋敷がたてられていた。老松町の南側は佐賀藩の屋敷だった。明治になってその佐賀藩の屋敷は拘置所となり大阪高等裁判所が建てられた。大阪高等裁判所の敷地と道路のあいだには佐賀藩蔵屋敷跡の石碑が建っている。この佐賀藩の蔵屋敷跡から北へ2本上がった通りが老松通りである。
 新御堂から老松通りへの入る所に「天満宮是ヨリ東」と刻まれた道しるべが建っている。道しるべの側面に取り付けられたプレートには、「明治三十六年三月梅田停車場と大江橋の間に梅田新道が出来て、天満宮参詣道案内の為にここより西百メートルの御堂筋角に建てられたもの」と書いてある。

 自宅に招かれた一件から良太はおゆきやお葉たちと親しくなっていく。七月二十五日にはおゆきの招待で娘の美佐子と孫の佐智と一緒に渡御の舟に乗り天神祭りを体験することになる。

 冷や酒をのみながら、良太は祭りのスケールの大きさにいまさらながら驚かされた。
 今までは、案内所の周辺で見掛けるにぎわいが祭りだと思い込んでいたが、川の中で繰り広げられているのははるかに大仕掛けだ。百艘の舟に一万人が乗るという新聞の記事も、あながち誇張ではなさそうだ。

東秀三「天満老松町」
 

 「橋の上で立ち止まらないでください」
 スピーカーで見物客に注意している警官の声が聞こえてきた。
 見上げると、身動きできないほどの混みようだ。橋の上から見るのも祭りなら、舟で行くのも祭りだ。天神さんの境内にも多くの人が詰めかけている。祭りって何だろう。ふと、良太はそんなことを考えていた。

東秀三「天満老松町」

 11月になり良太は仕事で訪れていた道修町で神農さんの祭りに行きあたり、張子の虎のついた笹を衝動買いしてしまう。道修町は中之島を挟んで南側にある町で、江戸時代から薬問屋の集まる町として知られている。その家内安全無病息災のお守りである笹を持ってひさしぶりにゆきに顔を出した良太は話の流れから、笹をおゆきにプレゼントすることになる。その晩、笹を喜ぶおゆきやそこに居合わせた客たちから、かつての道修町の風の匂いや神農さん祭りのことを聞かされる。
  
  年明けにゆきに顔を出した良太は店でなじみとなった骨董屋から、十日戎の吉兆を買うように勧められる。神農さんの笹を買ったならば、合わせて堀川戎の笹も買うのが習わしだという。堀川戎は老松町から国道1号線を渡った北側にあり、上を阪神高速守口線通る堀川筋のそばにひっそりと建つ神社である。その小さな神社も戎さんの時は大変な賑わいで、笹を買う大勢の人が社からはみ出すほどである。良太は商売繁盛の笹を買い無事にゆきに届ける。

 土地が異常な値上がりをしたバブル期には大阪の土地や町屋も買われ、マンションやテナントビルが建てられていった。中之島と梅田に近い天満老松町の辺りも例外ではなく、ゆきのある路地一帯にもそんな話が持ち上がっていた。店やその裏の家も含めて路地一体の20軒を大手建設会社が買い取り、事務所兼マンションを建てるという計画である。店や家を売れば莫大な金額を手にすることになるが、今のように店を続けていくわけにはいかない。これからどうしていくのか。女将とお葉の思いがずれ始めている。

 戦災で大阪の多くの街が焼けた。老松町も例外ではなく、老松神社も焼け落ちた。戦後料亭の立ち並ぶ路地の奥まった場所に移築されたという。小説の中で神農さんの少彦神社や堀川戎神社は出てくるのだが、老松神社は出てこない。老松町という地名は、昭和53年に西天満4丁目という表示に変更された。

  春になり、おゆきに頼まれて海外の単身赴任先から帰ってこない美佐子の夫の代わりに、美佐子と一緒に佐智の入学式にでることになる。入学式から帰った午後、女将にどうしてもと誘われて桜ノ宮へ花見に行くことになる。

 おゆきが無理強いしただけあって、桜宮の花はみごとだった。上流の淀川から毛馬で分流して市内に流れ込んできた大川に、両岸からところ狭しと満開の桜が枝を差し延べている。見渡すかぎりのさくら、さくらで埋まっている。良太はこれほどたくさんのさくらを見たのは初めてである。

東秀三「天満老松町」

 銀橋の名で知られている造幣局の前の桜宮橋を通して、遠くには大阪城の天守閣までが見える。左岸に群がるラブホテル街が目ざわりだが、イーゼルを立て、絵をかいている人もいて、ここが大阪とはとても思えない。大阪が水の都といわれているのが、実感として納得できた。良太が初めて見る大阪である。

東秀三「天満老松町」

 公園で花見をしながら車座になるおゆき、お葉、美佐子と良太の間を佐智が走り回る。お葉が作った弁当を食べながら佐智の世話をするお葉やそれを見ているおゆきや美佐子を良太は眺めている。春の日を浴びながら、これから変わっていく旅館での立場や、加賀にいる妻のこと考える。しかし、これからどうなっていくのかは、良太には見当もつかない。

 今大阪市内では多くのタワーマンションが建っている。西天満にもタワーマンションもあるが、中小規模のビルが多い。ビルとビルの間にはまだわずかだが町屋も残っている。法曹関係者が多く働く街は、カフェや食堂、飲み屋や料亭など多く、町屋はそういった店として利用されている。しかし、そんな街の路地を探しても老松神社は見つからない。平成3年6月に大阪天満宮の境内に移されたからだ。

 小説で描かれたころから30年以上が経っている。バブルがはじけ、長い不況の時代が続いた後に、旅行業界はインバウンド需要で潤うことになった。しかしその好景気も、新型コロナウィルスの世界的なパンデミックで吹き飛んでしまった。良太の旅館はまだ営業を続けているだろうか。おゆきやお葉は変わってしまった町で店を続けていけたのだろうか。案外神棚に飾った神農さんと戎さんの笹の効果で、店構えは変わっても骨董屋や弁護士を相手にしぶとく商いをしているかもしれない。
 大阪の町も変わっていく。道路から白線が消え、街路樹は切り倒され、万博の開幕が迫まっている。
 新しく変わっていく町で暮らす、否応なく変わらざるを得ない人々のくらし。きっと誰かが今綴っているであろうそんな人たちの声は、30年後にはどのように読まれるのだろうか。
 

参考文献
「中之島」 東秀三著 編集工房ノア 1991年7月14日 発行
「明治前期昭和前期 大阪都市地図」 清水靖夫編 柏書房 1995年6月20日発行
「大阪史跡辞典」 清文堂出版 三善卓司編著 1986年7月10日 発行



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?