嫁ぎたくない
episode1「丁半ばくち(前編)」に出てくる長谷川と新顔のマリアです。
廓のシーンのはずですが、色気も素っ気もない。求む色気。
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うっすらと白く染まる屋根に、日が照りかえってまぶしい。この場所が一番静かな朝、まわし(下男)が外を掃く音が静かに響いた。
「麻璃亜、マリア」
寒い。
羽毛がたくさん入った布団の中でうなり声がする。
「ちょっと、京さん、その名はやめてって言ってるだろ。信燈だよ」
「似合わない、いッ」
ふすまを開けた長い髪を怠く結い上げた遊女が布団の山を蹴っとばす。中から眉をひそめた能面顔がのぞく。
「客相手に大した態度だ。長谷川と呼べと言ったろ」
「居つきが偉そうに」
「金なら月頭にまとめてる」
「ええ、だからうちの人があんたに頭が上がらないの。代わりにあたしが構うんでしょ」
下働きの人間がさっと布団を上げ、湯気のたつ朝粥を持ってくる。赤、黄、白ととりどりの漬物が添えられた。
京さんと呼ばれた長谷川が箸を手に取る傍ら、マリアは手元にたくさんの半紙を読む。無言の食事。申し訳程度に着付けただらしのない襟のマリアと、寝起きにきっちりと襟を正した長谷川がこの場に似つかわしくなかった。
「何か変わったことは」
「そうね・・・公方(将軍)と和宮皇女が顔合わせしたって」
「ふうん」
まずは手近な公家に取り入り、じわじわと朝廷を侵食している攘夷派がいる。長年、幕府の庇護下にいた朝廷や公家は、日々の生活費も京都御所の維持費も幕府にお伺いをたてねばならなかったが、昨今は幕府の権威が揺らぎ、朝廷の地位があがりつつある。強気な姿勢だ。幕府を崩したい攘夷派などの勢力が朝廷と手を組もうとしている背景もある。
世間の影でひっそりと生きながらえていた公家や朝廷は、かつての栄光を、と奮起している。
そんな謀略を幕府も黙って見過ごしはしない。古来より結束を堅くするに利用されるのは婚姻による血の繋がりだ。朝廷および帝が利用される前に幕府に紐づけてしまいえばいいのだ。
「帝と公方の和解っていっても、朝廷と幕府が近づくとは思えないんだけれど」
町の親戚付き合いだって七面倒なのに。
マリアがそう口にするが、長谷川は味噌汁に口をつけたままだ。
「なあに、黙り込んで」
ふっとマリアが煙管から煙を吸って細くはく。その消えゆく煙を長谷川はしばらく眺め、箸をすすめた。
「自分の雇い主になんて伝えようかってね」
「ああ、最近変わったんだっけ、飼い主さん」
「・・・・・ああ」
そこから少しの間、マリアが吸い終わり、長谷川が食べ終わるまで会話はなかった。
「うちのさ、紫姐さんいるでしょ」
「和歌が得意な」
「そう。身請けの話がきたんだけど、大坂の大旦那でさ。紫姐さんと気は合うんだけど、姐さん生まれも育ちも廓育ちだから京から出たくないって」
マリアが長火鉢の灰を火箸でつつく。細い腕が、火鉢から長方形に張り出した木枠に寄りかかった。
「紫さん、和歌が上手なだけあって繊細なところがあるからな」
長谷川がマリアの操る火箸を避けつつ、熱々の鉄瓶を持ち上げ湯のみにそそぐ。次いでマリアが火鉢に備え付けられた引き出しから干し柿を出す。
「お前・・・・・・客の前で干し柿かじる気か」
「しかも炙って食べちゃう」
溜息をつく長谷川にマリアは干し柿を手渡した。
二人そろって炙った干し柿をかじり、お茶をすする。
「それでうちが贔屓にしてる仕出し屋と、大旦那がよく使う仕出し屋が仲悪いのよね。食も変わるとなると、紫姐さん、大変だと思うのよ」
ある程度に裕福な家は、仕出し屋に料理を注文する機会が多い。高級な出前といった具合で、接待でも、ちょっとした家の食事でも外から持ってこさせる、そうなると、仕出し屋側もお得意様の食の好みはしっかり把握しており、「なにかちょうどいいもの」と注文すれば、大店の主人が納得するような料理が出てくる。
「といっても、ここ贔屓なら台屋だろう、商家と遊所で客がかぶらないだろ。悪くなるような理由がなさそうな」
「そうなんだけど・・・・・・兄弟弟子らしいのよ」
仕出し屋が商店や座敷に料理を提供するなら、台屋は游所専門の仕出し屋である。台屋の料理は台の物と呼ばれ、区別されていた。
兄弟弟子には因縁があるのだろう。長谷川は自分の通う道場での人間模様を頭に浮かべて、干し柿を呑み込んだ。
「ね、だからこんな巷でも面倒なことがあるんだから、公方と皇女の結婚なんて煩わしいことだらけだと思うわ」
まったくその通りである。
長谷川は頷かないが、もう色んなところで不満が爆発している。
というのも、皇女・和宮と徳川家茂の婚儀が進むと、幕府は褒賞として婚儀に関係した朝廷の人間を中心に、公家や女官の加増をすると伝えた。理由は明白で、帝と公方、幕府と朝廷の関係の修正の大目玉である和宮降嫁に尽力したからである。
そんなことを許せるはずもない尊攘派が、加増を受ける人らに圧力をかけ辞退させ、安政の大獄で処罰をうけた公家の復権と、幕府に協力した者への威圧を強めているという騒動は聞くに新しい。
それはそうだ、敬っている帝の娘が憎き公方の嫁となろうとしているのだから。
「今も昔も血の繋がりによる同盟ってのはあるが、徳川と皇女がねえ。ちょっと前までは釣り合わない権力差だったのに、面白い」
「ね、あたしいまいちよく分からないんだけど、帝と公方のどちらが偉いのよ」
「・・・・・・お前、簡単なようでややこしい質問をするな」
呆れて脱力した長谷川が、そうだなと腕を組む。
「少し前までは将軍家に絶対的な権力があった。朝廷内のことも幕府の許可がないとままならなかったぐらいな。それが最近、尊攘派の連中が将軍よりも帝がこの国を治めるべきだと動き始めて、権力がひっくり返るか、返らないか、手を組むか、と渦巻いているんだ」
合いの手のようにマリアが炙った干し柿を渡す。
「でもお客さんが、本来は日の本は帝のもので将軍が任されているだけだから、夷狄(外国勢力)に弱腰の幕府をつぶせみたいなこと言ってたわよ」
長谷川が受け取った干し柿を口にする。
「まあなあ、建前というかなんというか。徳川の幕府ができるまでは、戦に次ぐ戦で日の本中が荒れててな。その要因の一つに帝の信任を得て将軍となろうとする権力争いがあったから、帝や公家を権力闘争から引き離したところがある、初代将軍・家康公がな」
「帝が後ろにつくと、戦う建前になるのね」
「そうだ、そして建前があれば人がついてくる」
人工の正義が生まれる。
どちらともなく一息つくと、二人して口をつぐむ。
明け方にやんだはずの雪がちらちらとし始め、灰色の雲の向こうにうっすらと太陽が透けていた。
「ずいぶんと大きな虎の威ねえ」
マリアが興味を失した様子で、ちらばった手紙をまとめて長火鉢にくべる。紙の端から赤く燃え、しばし小さな炎が上がってから消えると、真っ赤になった炭に落ち着いた。
長谷川は熾火となった赤い炭をじっと見つめていた。
この日からまもなくして、薩摩藩主・島津久光が上洛。
朝廷内で絶大な権力を誇る五摂家がひとつ、近衛邸へ赴く。島津の武力を背景にもった入京であり、朝廷・公家との繋がりを明らかする行為であった。
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おそらくこういった権力への視点を持つのは一部という見解です。大地震や飢饉、コレラ流行、慢性的な貧困から、あらゆる身分の人々が、現状の不満を幕府へぶつけ、代わりに帝に助けてほしいという流れ。さらに外国勢力に刺激され生まれた帝のいる日本というアイデンティティが絡み合い、尊王に傾倒した人たちもいるでしょう。もちろん権力闘争している連中もいるでしょう。少し昨今の日本と似ていますね。地震も多いし、コロナも三年目ですし。(なにがし)
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