【短編小説】うんめいのひと

 ごしゅじんさまは今日もかえってきません。まい日のおそうじとおせんたく、おりょうりはつかれてしまいます。ごしゅじんさまがかえってくるまで少しお休みをすることにしました。

 わたしがまだちいさなちいさな小どもだったころ、このおやしきにやってきました。あさは早くにおきて、ごしゅじんさまにごあいさつをします。ごしゅじんさまはとっても早おきで、わたしよりもおそくにおきてきたことはありません。何じにおきているのですか? ちゃんとねむっていますか? ときいてもはぐらかされるばかりでした。いつかごしゅじんさまよりも早くおきて、わたしが目ざめのキッスをしてあげるんだといきごんでいたのに、いちどもかなったことはありません。

 さい近のわたしはどこかおかしいみたいです。ごしゅじんさまに負けないように早おきをしていたのに、あさがとってもにが手になってしまいました。おきることができないのではなく、たいようの光がなんだかとってもこわいのです。あのかがやきを見ているとからだがふわふわととけてしまいそうになるのです。わたしがわたしでなくなるみたい。そうしたら、ごしゅじんさまに会えなくなってしまいます。わたしはカーテンの向こうがわのせかいに会いにいくのは、たいようがおねんねしてからにすることにしました。
 おりょうりをするのはすきですが、あまりとくいではありません。ごしゅじんさまはいつもほめてくれますが、うそをつかれているみたいであまりうれしくありませんでした。ごしゅじんさまがかえってくるまでに少しでもじょうずになりたいのです。でも、あまりおなかが空きません。いっぱいたべるところがわたしのとりえで、ごしゅじんさまにかわいいねと言ってもらえることなのに。今のわたしはかわいくないかもしれません。

 今日のごはんはなまやけのミートパイ。きりわけたら中心があかいままだったのを、ひとくち食べてからきがつきました。でも、それがおいしいのです。わたし、しりませんでした。生のおにくがこんなにおいしいだなんて! ごしゅじんさまはしっているでしょうか。そういえばむかしごしゅじんさまも言っていた気がします。「しっぱいからまなぶことがたくさんあるんだよ」と。ごしゅじんさまがかえってきたら、まっ先に食べさせてあげたいとおもいました。

 ならば、ざいりょうが足りません。れいぞうこの中身はぎゅうにゅうとバター、たべかけのりんごがひとつ。今日のおりょうりでほとんど食べつくしてしまいました。かいものに行かなくてはなりません。でも、たいようの光がしんぱいです。ごしゅじんさまがつかっていた少し大きな傘とからだがかくれるケープをまとってお外に出ることにしました。

 じこくは午ご四じ。たいようがつかれておねむになってくるころです。やわらかくなった光と傘のおかげで外はあまりこわくありませんでした。しかし、まちのひとたちの目せんがおかしいのです。傘をさしてあるいているひとはいません。だからわたしがういて見えるのでしょうか。すれちがった小どもがわたしを見て小さなひめいをあげました。こわがらせるようなことをしたつもりはありません。わたしはふあんになってあたりを見回します。すると、みせ先にあったかがみにうつる人ぶつと目があいました。

「ひっ!」

 わたしはおもわずこえを上げました。どろどろに溶けたはだ、ひとみはこぼれ落ちそうになっていて、どこを見ているのかわかりません。とうてい人げんとはおもえないそのひとは、わたしとおなじ傘をもって、おなじケープをみにつけていました。おそるおそる近づいてかがみにふれます。かがみの中のひととゆび先がかさなりました。かがみにうつるばけものは、まぎれもなくわたしだったのです。

 どうしましょう、どうしましょう!

 ばけものになってしまったわたしのもとに、ごしゅじんはかえってきてくれるでしょうか。こたえはきかなくても分かります。かいものに来たいみも、おりょうりをがんばるいみも何もなくなってしまいました。わたしはここにいるべきではないのです。そして、おやしきにかえるべきでもないのだと分かってしまいました。わたしのいばしょはどこにもないのです。目のまえがゆらゆらとゆれてきました。せかいが回りはじめたのかとおもったら、わたしがないているようでした。とけたはだの上をなみだがながれて行きます。いっしょにはだもはがれていくようなかんかくがありました。

「どうして泣いているの?」

 おとこのひとのこえがしました。わたしにこえをかけたのだと気がつくのに少しだけじかんがかかりました。

「こんなところで泣いているなら、ぼくのおうちに来ないかい? 家族は多い方が楽しいからね」
「おうち?」
「キミは買い物に来たのかな? 料理はできる? 今、メイドを探していてね。キミのような可愛らしい子が来てくれると嬉しいのだけど」

 わたしには、かれが何を言っているのかよく分かりませんでした。だって、わたしはかわいい子ではありません。ほんとうはわたしにはなしかけているのではないかとおもいました。かんちがいしないように目をふせると、かれがわたしの手をとりました。

「キミに話しているんだよ」

 そのひとは、まちがいなくわたしだけを見つめていました。

 あたらしいごしゅじんさまのおうちでは、たいようがねむったじかんをあさとよびます。カーテンをあけると、お月さまが控えめにおへやの中をてらしてくれます。ごしゅじんさまはまだゆめの中でしょうか。

「ふふ、あさですよ。ごしゅじんさま」

 ベッドの中で寝息を立てているごしゅじんさまのほっぺたにくちびるをよせます。たいようがすきだったころにはしらなかったむねのたかなりがありました。これはなんでしょう。ごしゅじんさまが目をさましたらゆっくりおしえてもらいます。

 今日はまだはじまったばかりなのですから。

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