4、ほんとどうしようもない

 左手に指輪の痕を見つけたのは、二時間前のことだった。指輪を着けている姿なんて見たことがない。好きになっていい人だって思っていたので、息が止まるかと思った。薬指に白く、指輪の形を残して日焼けをしている。今年の夏は、家族で海や山に行ったのだろうということがわかった。

「ねえ、坂本さんって結婚してる?」
「え、ああ。そうだよ」

 なるべく声が震えないように、隣の席の中村綾子に聞く。ずいぶんあっさりと肯定が帰ってきたので目眩がしそうになった。聞けば一昨年に籍を入れ、コロナ禍であることも理由に親族のみでささやかに式を行ったのだという。

 新卒で入社して今年で四年になる。そのとき、私の教育係になったのが坂本さんだった。ほどよく豪快でよく笑う。真面目で繊細な部分も持ち合わせていて、そのギャップにときめいた。仕事が覚えられずぐずってしまいそうな時、嫌な顔せずに一緒に残業してくれた。そのときも帰れば将来を誓い合った女性がいたのだろうか。恋人よりも優先してくれたと思えれば幸せだが、人のものを奪ってまで幸せになりたいだとは思えない。そもそもそれは不幸せの入り口だ。

「指輪してるとこ見たことなかったから驚いて」

 ああ、と綾子が相づちを入れる。ああってなんだよと思いながら、彼女の返答を待つ。しばらく無言だったが、少しして「確かに」とだけ返ってきた。

「見たことないわ、私も」

 ゆっくり時間かけていうことが同意か、と脱力する。着けてくれていたら私の中にこんな感情が生まれることもなかったのに。

「指輪って、魔除けなのに」

 ぽつり、声になってしまった言葉に綾子が「え」と反応する。私は彼女に聞こえてなかったと思い込むように無視をする。デスクトップに表示された作業途中のエクセルが、黙ったまま私を見つめている。キーボードに置いたままの指を動かすのも億劫でそのままになっている。私は小さく溜息を吐く。

「もしかして、好きだった?」

 デリカシーという言葉は綾子の辞書にないのだろうか。私は目線だけで彼女の顔を見る。呆れてしまうほどに真剣な目をしていたので乾いた笑いが漏れた。

「あんなの罠だよ」

 先輩としてくれた優しさを特別な物だと思い込んでしまうなんて、学生の恋みたいじゃないか。指輪さえしれくれたら踏みとどまれたのに。全部あいつのせいにしてやるしかない。

「あとこの前お子さん産まれたって」
「なんで追撃するのよ」

 ほんとどうしようもない。好きになんかならなきゃよかった。彼の世界に入りたいなんて思いたくなかった。

「帰り、飲みに行くからね」

 火曜日なんだけど、と口をとがらせる綾子を見なかったふりをする。幸せになんかなるな、私よりも。期待しちゃたのが恥ずかしい。まだ予約のない自分の薬指がなんだかさみしかった。 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?