5、マスクに隠した劣情

 隣の席の藤森さんは、新学期の直前に左足を骨折して入院していた。聞けば階段から落ちたらしい。骨折で済んでよかったなと思った。

 藤森さんとは、今年のクラス替えで初めて同じクラスになる。ずっといない子という認識だけで、どんな人なのかは全く知らないまま、月日は流れ、席の主が戻ってきたのは、六月になってからのことだった。

 藤森さんはボブカットがよく似合う、おとなしい女の子だった。休み時間はよく本を読んでいて、授業の間だけメガネをかける。感染症対策のためにつけているマスクの白よりも白いのではないかと思うほど肌が白い。時折信じられなくなって、自分の小麦色の肌を見ては安堵している。そのマスクの下にも白い肌が続いているのだろうか。そんなことを思って、喉が鳴った。

 見えているものよりも見えていないものに強く惹かれるのは、多分どの時代も一緒だ。中身の分からない玩具菓子、ぬいぐるみの洋服の下。宇宙の果てとか、自分の未来とか。彼女のマスクの下がどうなっているのか知りたいと思う気持ちと、何も知らずに想像していたい気持ちが拮抗する。

「沼田くんは今日も藤森さんのこと見てんの?」

 こんなことを聞くのは笹本しかいない。俺は肩に回された手を解きながら、一発チョップをお見舞いする。

「そんなこと言って、お前も見に来たんだろ」

 笹本は頭をさすりながら「冗談言うな」と言った。その冗談を言いに来たのはお前の方だろう。

「藤森さんは素顔がわかんないからなあ」

と、失礼なことを言って首をひねる。昨年に引き続き同じクラスである笹本は根っからの面食いである。昨年も同じクラスだったということは、俺と同じように彼も藤森さんと同じクラスになるのは初めてで、その素顔を見たことがないのもその通りだ。

「目元だけで恋できるほど俺は甘くないんだよ」

 どんなプライドだよ、と言いたかったが無視をして、読書する彼女の指先を見ていた。時折マスクを直すために口元に手が伸びる。そのまま、マスクを外してくれないか。肌の色も鼻の大きさも唇の色もわからないまま、俺は釘付けになってしまう。

「何か」

 不意に顔をあげた藤森さんと目が合った。視線を感じていたのだろうか、呟くように問いかける。俺は「あ、えと」と口ごもりながら首を振る。相当気持ち悪い動きをしてしまった。隣の笹本が余計なことを言い出す前に逃げるようにお手洗いに向かう。マスクをしていてよかった。今自分がどんな顔をしているかわからないが、きっと誰かに見せてはいけない顔をしている。

 目元だけで恋はできる。心臓に身体が支配されてしまったみたいだ。それでも、彼女のマスクの下はまだ知らないままでいい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?