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【短編小説】 口実

 アルコールと揚げ物の匂いが充満した空間に誰かが連れてきた煙草の残り香が入り混じっている。意図して浅くした呼吸のせいで身体が重くなった。時計を見れば間もなく十時半前。遠くで同期の坂下が上田部長たちと二次会の計画を立てているのを聞く。左隣に座る中田さんの香水に食欲を奪われ、私の分と皿に盛られたもののすっかり冷めてしまった牛のモツ煮にうっすらと白い膜が張り始めていた。

「百瀬は二次会どうする?」

 ビールのジョッキを構えながら、華村先輩が私の右隣に座った。半分も入っていない黄金色が揺れる。ごと、と鈍い音が話し声に飲み込まれるように溶け込んだ。

「いや、まだ悩んでて」

「無理して行く必要ないから。特に百瀬みたいな可愛い子はさっさと帰るのが身のためだよ」

 華村先輩はまたジョッキを持ち上げた。喉が二度上下する。その分だけ中身が減った。薄く縁に赤が移っているのがなんだかいやらしく見えた。

「先輩はどうするんですか」

「え、私?」

 食べる予定もないのにモツ煮に浮いた脂を溶かすように箸を差し入れる。視線はモツ煮に注いでいるが、華村先輩の答えを期待していた。行くでも行かぬでもいい。どうするのかを知りたかった。

「私は、うーん。どうしようかなあ。百瀬が行くなら行こうかな」

 アルコールで赤らんだ顔のままうっとりと微笑み、私の顔をのぞき込む。華村先輩が行くなら行き、帰るなら帰ろうと思っていた。主体のない私を見通されたようで息が苦しくなった。箸を置く。

「えっと、私は」

 言い終わるよりも前に、華村先輩が怪しく立ち上がる。ふらりと身体が揺れるのを見て、慌てて私も立ち上がった。腕を掴むと、そのまま私に体重を預けるようにして「へへ、悪いね」と笑うので「しっかりしてください」と伝えるつもりが「まあ」とだけ声に出た。

 華村先輩はいつも背筋が伸びて凛としている。五センチのヒールをものともせず堂々と歩く姿がかっこよく、それでいて仕事もそつなくこなし、後輩のフォローもさりげない。華村先輩に惚れない人類はいないのではないか、というのは私の過大評価ではないはずだ。私の観測範囲で華村先輩に悪い感情を抱いている人間は見たことはない。いや一人だけいる。上田部長だ。しかし部長が華村先輩へマイナスの感情があるのは、自分よりも有能な人間が下にいるのが心地よくないからだろう。心の狭い男なのだ。

 一人でも生きていけそうだなどと言われていた華村先輩が、私に支えられながらでないとろくに歩けもしない。お手洗いに行くまでの短い道のりがうんと長く感じる。

「先輩、着きましたよ」

 お手洗いの扉の前にたどり着いて、未だぽわぽわとしている華村先輩に声をかける。何度か酒の席を共にしたことがあるが、こんな風に酔った姿を見たことがない。支えているはずの私の鼓動はずっと早いままだ。声をかけても反応がない。重く、私の肩に華村先輩の頭が乗る。ああ、思ったよりも酔いは深いのかもしれない。華村先輩の肩に手を回し、洗面台に座らせるようにして身体を起こした。同時に身体を引かれてバランスを崩しかける。今転んでしまえば、華村先輩ともども床に落ちてしまう。怪我をしたら、させてしまったらどうしよう。居酒屋のお手洗の床など、お手洗い界の中でもダントツで汚いはずだ。そんなところに転ぶのは避けたい。一瞬にして色んな心配が巡る中、唇に覚えた違和感が思考を止めた。

「隙あり」

 悪戯っぽく笑う華村先輩の顔が見たことないほど近くにある。今の違和感はキスだったのだと気がつくまで数秒かかった。私はけらけらと愉快そうに笑っている華村先輩を何も出来ないままじっと見つめる。ビールと口紅の人工物の苦味が唇の上で混じり合っていた。

「ああ、移っちゃったね」

 そう言って、華村先輩が親指野原で私の唇を拭う。指先は先程のジョッキと同じようにほんのりラズベリー色に染まっていた。それが華村先輩の唇を染めている口紅の色と同じことに気がついて、体温が上がるのを感じた。

「どうして」

 やっとの思いで意味のある言葉を紡ぐ。華村先輩は「どうしてだと思う?」とまた笑った。

「酔っているんですよ。いつもそうなんですか?」

 私が聞いているのに、私に答えさせようとする華村先輩に少しいらだつ。性格が悪いと思われただろう。私はやっとの思いで視線を外す。この調子なら一人でもきっと大丈夫だ。勢いのまま逃げ出すようにお手洗いから出ようとする私の手を引くので戸惑った。

「百瀬、私は二次会行くのやめようと思うんだ。見ての通り大分酔いが回っているしね。百瀬はどうするんだ?」

 まるで答えが分かっているかのように問いかける。華村先輩が行かないのなら、行くのをやめよう。先まではそう思っていた。しかし、今はどうだろう。

「質問の仕方を間違えた。二次会は行かずに私と一緒に抜けてくれないか? 百瀬のような可愛い子をウチの下劣な男性社員と一緒にするわけには行かないんでね」

 質問だと華村先輩は言うが、これは命令ではないかと思った。

「私の意思は尊重されるのでしょうか」

「答えは『はい』しか用意していなかったはずなんだけどな」

 初めから分かっていたことだが、今の華村先輩の辞書には『選択権』という文字は綺麗さっぱり消えてしまっているようだ。私は仕方なしに頷く。さっさと帰宅したいと思っていたのは本当なのだ。

「よし。じゃあ口実は十分だな」

「口実?」

「ああ。百瀬が詰められることなく二次会を断るための、な」

 先ほどまでの覚束なさはどこへ行ったというのだろうか。いつもの凛とした態度の華村先輩がそこにいた。

「演技だったんですか?」

 まあな、と微笑む華村先輩を見ながら彼女の何を信じたらいいのか分からなくなる自分がいた。「キスまでして。誰も見てないのにおかしいですよ」と悪態をついてみる。

「誰も見てないからだろう」

 まるでそうするのが自然だとでも言うようだった。
 華村先輩越しに鏡に写る私の口角が上がっていることに気がついて、上がった体温の意味を考えないようにする。答えはまだ必要ない。

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