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『ボーはおそれている』こんな里帰りは嫌だ。どんな里帰り?

あらあらあら、どんな映画になっているのかいまいちわからなかったアリ・アスター監督の新作でしたが、蓋を開けてびっくり。ボルヘスやカフカっぽい不条理感満載のホラーコメディでした。わ、わしの好みやんけ~。
いやね、最初この映画の話を聞いたときは、わあい、ホアキン・フェニックスだ〜。わあい、アリ・アスターだ〜。わあい、しかもA24だ〜。わあいわあい、と思ってたんですが、実際観てみると全二作とはだいぶ恐怖の方向性が違いました。というかこれは、不条理劇の面をかぶったロードームービー。ロードムービーに見せかけたホラー。ホラーと思わせて実は壮大なコメディ。それらすべてをひっくるめて、最終的に映画と観客の関係性をあぶり出したピカレスクなのだと思います。
ジャンル名だけ言われてもなんも伝わんねーよという声はごもっとも。
ではでは順を追ってボーの旅を見ていきましょう。ちなみに物語の核心部分にも言及しています。まあネタバレしたからといって印象の変わる映画ではないと思いますが……。

はじまりはこんな感じ。

あらゆることが不安で不安でたまらないボー。彼は常に何か悪い予感に囚われ、"それ"が実現することをおそれていた。
せまる父親の命日。ボーは久しぶりに母親の住む家へ帰ることになっていたのだが、夜中に眠りを妨げられる事態が起こり、目覚めた時には飛行機の出発時間が迫っていた。慌てて家を出ようとするボー。しかし不運なことは立て続けに起こる。忘れ物を取りに戻るため、ドアに鍵を刺したまま部屋に戻った隙に、旅行のための荷物が鍵もろとも誰かに奪われてしまったのだ。彼が想像する不安は次々と実現する。ちょっと部屋を離れた間に路上にいた人たちは彼の部屋を占拠し、その上自分は部屋に入ることが出来ない。
さらにはなんと、母親が怪死したと電話で聞かされ、いますぐ駆けつけなくてはならなくなる。しかしトラブルは収まらない。一難去ったらまた一難。次々と予想もしなかった出来事がまるでピタゴラスイッチかのように押し寄せ、やがて夢とも妄想ともつかない非現実的な旅が始まるのだった。果たしてボーは母親の葬儀にたどり着くことができるのか――。

いくつかのセクションに分かれて進行していく本作ですが、絵的なインパクトのある場面が多数あります。冒頭のボーが住んでいる街はめちゃくちゃ治安が悪そうで、おかしな言動を大声でわめく人、ボーの姿を見つけると全力で追いかけてくる入れ墨だらけの人、全裸で徘徊している人、そんな「荒廃」という恐怖が満ち満ちており、いやいくらなんでもこんな世紀末な場所ほんとにあるの?と突っ込みたくなるくらい。なんつうかちょっと度が過ぎててビジュアルで笑わせようとしてる気がします。

続くシークエンスは盛大に車に轢かれた上、”誕生日の男”にナイフで切り付けられ外科医の家で養生する場面。ナイフで切られるボーが「なぜこんなことを~」とか言ってますが、いやほんと私もそう思う。つうか、この映画、ボーが言っているこの「なぜこんなことを~」という台詞の気分がそのままずっと続きます。少々頭のネジが外れた元軍人の男に見張られたり、同居する女の子が目の前でペンキをいきなりガポガポ飲んだり、正気の沙汰じゃありません。なんかデヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス』思い出したぞ。

中でも外科医の家から逃げ出したボーが「森の孤児たち」に出会い、そこで鑑賞することとなる舞台劇は印象的。サイケデリックな美術を駆使し、実写ともアニメともつかない絶妙に気味の悪い感触のある映像は目に焼き付きます。この舞台劇を観たボーは、まるで自分のことを語っているように感じて感動するのだけど、主人公の男が童貞だと判明して、「じゃあ自分のことじゃないな……」と我に返るシーンとかアホらしさ満点です。そのあと襲撃によって舞台劇が突然終幕するのも、観終わったあとだと余計に「なんだったんだあれ……」という気分になりますし。

たぶん、いや確実に、監督はこの『ボーはおそれている』で笑いをとりにきている。しかも不安とか恐怖という形で。だからこの映画ではボーがおそれているあれやこれやの嫌~なことが、「はいはいでもほんとはこれが欲しいんでしょ」と云わんばかりに必ず実現するのです。
玄関の鍵を指しっぱなしにすれば誰かに荷物ごと持っていかれるし、部屋の中に誰も入りませんようにと願ったならどかどか路上の人々が押し入ってくる。ティーンの娘とは意思の疎通ができない上、意味不明な脅しをされますし、安心して舞台劇を観ていれば襲撃をくらう。コントじゃんこれ。ツッコミ不在のコント。いやツッコミ役として主人公のボーがいるにはいるのだけど、あまりに彼は周りの状況に流され過ぎていて、謝ったり戸惑ったりするくらいしかできていない。
なんでしょう、野生爆弾とか天竺鼠とかランジャタイのお笑いを見ているような、ボケがすごすぎて相対的にツッコミが弱くならざるおえなくなる、そんなコントを私たちは見せられている。
ボーと一緒に不安とか恐怖を体験していくと、観ている側としてはもはやそういう感情を通りこして笑うしかなくなってしまう。これわ前衛芸術でしょうか監督。私には前衛芸術の面をかぶったコメディに見えるのですが。実際どんなつもりで本作を作ったのか聞いてみたいです。

そして最後のシークエンス。さんざん回り道をしたあげく、ようやくボーは母親の家にたどり着くわけですが、時すでに遅し、すでに葬儀は終わっていた。ユダヤ教の戒律で、故人は24時間以内に速やかな埋葬をする必要があり、遺言通り葬儀に立ち会うことが出来なかったボーは途方に暮れます。しかしその後なんと母親が登場。しかもここまで起きていたあらゆる困難は、すべて母親が仕組んだことであると判明するのです。

つまりこの映画はある種のパラノイア(偏執狂)についてのお話なのだ。この映画の虚実がわかりづらいのは、パラノイアであるボーの精神内での出来事——ボーにとって現実として見えている景色を画面にそのまま映し出していることと、その上で母親のボーに対する異常な執着が生み出した「不愉快版トゥルーマン・ショー」的な、制御された、これまた異常な現実が同時に画面で起きていることが原因だろう。それはファーストセクションにおけるボーの住んでいる街からずっとそうで、この野蛮で世紀末すぎる場所は、ある程度現実でもあり、ボーによる誇張された現実でもあることを意味している。ほら、ハリウッドザコシショウが誇張モノマネをやってるでしょ。あれを思い浮かべてもらえばわかりやすいはず(むしろわかりにくくする例)。
そんな風に考えると、あの屋根裏部屋にいた巨大なペニスのかたちをしたモンスターなんかも、おそらくはボーから見た誇張された現実なのだろうなと想像できる。

『ボーはおそれている』では時間の経過が少々突飛に思える部分があったり、音に関しても、耳障りな音が続くかと思えば視点をちょっと切り替えただけでスッと静かになったりする。それもまた、ここで描かれていることがボーを中心とした主観的な感覚に重きを置いた事象だということを意味している。なるほどこれはあれだ。私が好きな「一人称映画」だ。一人称映画。物語の語り方において、小説と同じく、主人公が体験した主観的な出来事のみを描いた映画のこと。私の造語。例えば『ファイト・クラブ』がそうであるように、主人公の視点からのみ話を紡ぎ、現実を映すこと。それは必ずしもあるがままの現実というわけではなく、あくまで主人公から見た現実ということになる。

水、天井裏、セックス。ボーはいろんなものをおそれていて、それは母親からの溺れ死んでしまうかと思うほど重度の愛情によって、意思を支配されているからだろう。そしてそれが彼の根源的な恐怖ともなっている。自分で何らかの意思決定することができないボーは大人の身体を持ちながら、精神的には思春期の子供のままだ。「逆コナン」、いや、「逆哀れなるものたち」状態。主演のホアキン・フェニックスはそんな繊細で、世界そのものに恐怖するボーを見事に演じていた。やっぱりこの俳優はこういう繊細な役がよく似合う。

私が本作で特に惹かれるのは、この映画の「映画をメタ的に扱う」という側面だ。外科医の家で、グレースから「チャンネル78を見て」とリモコンを渡されて見た映像には、どこかから映された自分自身の姿が映っている。巻き戻せばこれまでの自分が、さらには早送りにすることでなんと”この後自分の身に起こることまで映される”
このシークエンスはなんだろう。
彼自身の不安を象徴したシーンかもしれないし、母親が未来における事象まですべてを制御していることをほのめかすシーンのようでもある。
でも私にはこういった"視られているボー"と、"先のことまですべて決まっている"という構造には、本作の裏テーマみたいなものがあるように思える。

3時間たっぷりボーが混乱し、恐怖し、泣き喚く姿を視ていても、私たち観客は彼に一切手を差し伸べることはできない。それどころか多くの観客は(私も含めて)それを”楽しんで”いる。
私たちが観ているこの映画という箱にはめいっぱいの恐怖がつまっており、そこに私たちは介入することが出来ない。巻き戻したり、早送りしたり、最後の場面を最初に見たり、映画内の時間は配信やBDなど自宅の鑑賞機器を使えば自由自在ではあるものの、私たちはただ観ているに過ぎない。ボーがどれだけ必死に助けを求めても、私たちはただそれを眺めているだけなのだ。劇場ならなおのこと。

では、その映画としての、観客である私たちと彼に手助けすることが出来ない構造からは何が読み取れるのだろう。例えば本作のモチーフには旧約聖書における「ヨブ記」があり、神とヨブの関係性を母親とボーに当てはめてみるなんてことができるだろう。あるいは、ユダヤ人である監督のルーツから、宗教によって抑圧された人間性、さらにはその”頑なさ”によって現代生じている世界の軋轢を断罪しているなんて見方もできるかもしれない。
だけど、この映画にはそういう外部のなにかを当てはめて読み解くことを拒む性質がある。だってこの映画が描こうとしているのは「訳が分からない」という感覚そのものだから。

で、最終的にボーは、「じゃあボクはボクの現実を生きる。もしこれがボクのパラノイア的妄想だとしても、あるいは母親の作り出した制御された現実だとしても」なんてありきたりで前向きな結論に行きつくことはない。はじめに言った通り、この映画はある種のコメディなのだ。そこに意味を求めすぎることに対する疑義、言い換えれば”おそれ”が垣間見え、ラストシーンにおけるあれだって、捉えようによってはギャグ漫画を彷彿とする「爆発オチ」という投げっぱなしジャーマンみたいな終わらせ方だ。
結局のところボーはこの旅を通して最初から最後まで籠の中の鳥だった。そして最後はボートが沈むことで、ようやくずっとおそれていた「水の恐怖」が我が身に訪れる。だから最後に彼は安心したんじゃないかと思う。ああ、もうこれ以上何かを不安に感じる必要はないのだ、と。
その意味でこれは彼の成長物語なんかではなく、むしろ変わらないことそれ自体をテーマとしている映画なのだと思う。

既存の映画的文脈から著しく外れることで映画の在り方を見つめ直し、安全な立ち位置から登場人物たちの受難を見つめる「無関心な」観客との関係性を描く。私にとって『ボーはおそれている』はそんな映画だ。

三作目にしてもはや分類することが困難なこんな作品を作ってしまい、監督は次にどこへ向かうのだろう。ラディカルでありながら、ボーの人生にある種の"親密さ"を覚え、笑いと絶望感が同居する。

こんな里帰りは嫌だ。どんな里帰り?
その最適解はここにある。




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