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奇書い奇書い奇書

奇書とは

ユリイカ2023年7月号 特集=奇書の世界』で円城塔と酉島伝法が語っているように、奇書というものは考えれば考えるほど”どんな本にも当てはまるもの”なのではないかと思う。逆にどんな本が「奇書ではない」要件を満たせるというのだろうか。時代の変換によって「普通」とされていた本が奇書となることもあれば、実験小説として狙って書かれた本がそのまま奇書となることもある。装幀や編纂によって奇書となった本もそうだし、小説に限らず学術書やノンフィクションに分類される本だって国や時代が変われば奇書となり得る。あらゆる形の奇書があり、見方によっては全てが奇書だ。さらに言えば何を持って奇書とするかは個人個人で異なるはずで、必ずしも確実な奇書など存在しないともいえる。
とはいえ、一般的に「奇書」とされている本があるのだから、「奇書っぽい本」というのはきっとあるはずで、こうしてごちゃごちゃ言ってる私の頭の中にもその「奇書像」はある。
例えばいわゆる「日本三大奇書」とされる三冊は以下の通り。
『黒死館殺人事件』小栗虫太郎
『ドグラ・マグラ』
夢野久作
『虚無への供物』
中井英夫
三冊ともむかしパラパラ読んではいて、なるほどどれもこれもアクの強いとんがった小説ですなあ、と思ったものでした。
ただ、「奇書」というのはみんなに読まれれば読まれるほどある種の魔力を若干損なう気が私はしていて、例えば『チェンソーマン』の悪魔が大衆に安心感を持たれ、好かれれば好かれるほど、弱体化していくように、「奇書」について言えば多くの人に認知され、馴染まれれば馴染まれるほど、その”奇書性”が失われるような気がするのだ。
奇書が「なんだかよくわからないけどすげえ本」というものであるとしたら、ミステリー小説や幻想小説のオールタイムベストとして毎回名の上がるこれらの本は、「我こそは奇書でござい」って具合の立ち位置にいるせいで、結構な人に読まれている気がするし、読んでいなかったとしても、名前くらいは聞いたことのある「お馴染み」の本になっている。
で、何が言いたいかというと、
私も奇書を紹介してみたい。
ということにつきる。
ユリイカの特集号を読んでいて思ったのは、「奇書ってもはや言ったもん勝ちなのでは?」ってことで、「これも奇書ですよ」と紹介するのはむしろその本の価値を高めることになるということ。
だから私は私の奇書を紹介する。私が好きな本を「奇しい書」として紹介することで、さらに強く奇書性を持ち、もっと多くの奇書い本が増えたら面白いよな、と思う。そんなことを考えながら個人的な10選を選んでみた。

というわけで10選

『創造者』J.L.ボルヘス
『平行植物』レオ・レオニ
『虚人たち』筒井康隆
『鏖戦』グレッグ・ベア
『ディスコ探偵水曜日』舞城王太郎
『都市と都市』
チャイナ・ミエヴィル
『皆勤の徒』酉島伝法
『ゴジラ幻論』倉谷滋
『よん&むー』伊藤潤二
『異常論文』樋口恭介(編集)

どやあ。結構いい10選なのでは?一作ごと紹介したい気もするけれど、あんまり長くなると読む人も疲れちゃうだろうから、ここでは厳選して3作を軽く紹介しておきます。

奇書三銃士を連れてきたよ。

『虚人たち』筒井康隆
あらゆる手法を使い既存の文学に挑戦した筒井康隆の実験小説。改行や読点が無く、一頁ごとに一定の時間が流れるため、語り手が気絶してる間は頁が空白になったりする。主人公はメタ的な視点も持ち合わせており、自分自身が小説の登場人物であることを認識しており、非常に奇妙な手触りのする本である。小説とは何か?ということを読者に突きつけてくる究極の「虚構小説」。
「うっす、よろしく」

『ディスコ探偵水曜日』舞城王太郎
スラップスティックな恋愛小説が始まったかと思いきや、その後はミステリー、SF、幻想文学とどんどんジャンルを変え、いやジャンルを飲み込み、読者の脳味噌をぐるんぐるんにかき回しながら、やがて世界の果てまで到達する。トンデモ理論のオンパレードだがなぜか納得してしまう不思議さは、作者がどこまでも言葉の力を信じていて、その熱に当てられてしまうからだろう。「魔」を喰らい、「愛」へとたどり着く、規格外の傑作。
「がんばります、よろしく」

『ゴジラ幻論――日本産怪獣類の一般と個別の博物誌』倉谷滋
2016年公開の怪獣映画『シン・ゴジラ』に登場する女性科学者が書いたとされるレポートや、初代『ゴジラ』に登場する山根博士の講演記録が掲載された本。冗談みたいな本だが(実際コンセプトは空想科学読本に近い)、本職の形態学の教授によって書かれた文章は詳細を極めており、どこまでが「現実」でどこからが「虚構」かを見失わせる。真面目な悪ふざけ本の極北。
「よっす、どうも」

アンバランスな奇書にして

そんなわけで個人的に奇書だと思う好きな本を紹介してみました。人によって色んな「奇書像」があるのは承知の上なので、こんなん奇書やないやろー、というご意見もあるとは思います。でもやりたかったんだもん。私が思う奇書って、必ずしも「完璧」を目指して書かれたものではなく、チューニングが度を越して狂っていたり、その中に「熱」や「知性」が封じ込められていたりする本で、さらにいえば「人に容易に薦められない」ってのも入ってくると思います。そういうアンバランスさには下品で、不愉快で、恐くて、いやらしくて、えげつなくて、痛々しくて、汚くて、狂ってて、まるで受け入れがたい感性がそこここにある場合が多いのだけど、同時にある種の純粋さ、「一途な何か」があったりする。そしてその感性にピタリとハマった時、奇書はその人の価値観を変えるほど強い威力を持つ。私はそんな本が読みたいし、そんな奇書い本が増えたら楽しそうだなと思うのだ。
奇書は語れば語るほど野暮な感じになるし、本来は無謀な試みなのだと大尾侑子氏もユリイカの特集内で仰ってまして、それにはおおむね同意しますが、その「渇き」を癒すためには新しい奇書が必要になるし、語る言葉が必ず要る。どうだろう、私のこの言葉は、文章は、あなたの渇きを少しは癒せただろうか。

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